小学校3年生のとき、担任の先生が休みで代わりにきた先生が、普通の授業ではなく、道徳の話をしてくれました。当時は道徳の時間というのがなかったので、その先生の特別なはからいでした。
「私たちがご飯を食べられるのは、お百姓さんがお米をつくってくれたおかげです。家に住んでいられるのは大工さんのおかげです。服を着ていられるのも服をつくってくれた人のおかげだし、このノートや鉛筆で勉強できるのも、ノートや鉛筆をつくってくれた人のおかげです。私たちはすべてのものに感謝して生きていかなければいけません」
先生は、実際はもっとたくさんの例をあげて、そんなことをいいました。
 
幼い私は、確かにすべてのものに感謝して生きなければいけないなあと素直に思いましたが、同時に自分にはできないなとも思いました。朝、歯磨きができるのは、歯ブラシや歯磨き粉をつくってくれた人のおかげで、靴がはけるのは靴をつくってくれた人のおかげで、自転車に乗れるのは自転車をつくってくれた人のおかげで、道路を歩けるのは道路をつくってくれた人のおかげと、そんなにいちいち感謝していられるはずがないからです。
そして、ひとつの疑問が芽生えました。すべてのものに感謝しなさいと教えているこの先生自身、すべてのものに感謝して生きているのだろうか。そんなことができるのだろうかと。
 
それが、私が道徳に疑問を持つようになった最初でした。
道徳を説く人は、自分も道徳的に生きているのでしょうか。
「人に迷惑をかけてはいけません」と説く人は、自分は人に迷惑をかけないよう心がけているのでしょうか。
はっきりいって、その根拠はありません。
実際に人に迷惑をかけないよう心がけている人は、「もしかして私の行動があなたの迷惑になっていませんか。もしそうならいってください」というでしょう。
それから、「あなたは誰かから迷惑をかけられて困っていませんか」というかもしれません。
 
「人に迷惑をかけてはいけません」という人は、人に迷惑をかけないよう心がけている人ではなく、目の前の人間が人に迷惑をかける人間ではないかと疑っている人です。少なくともその言葉に目の前の人間に対する思いやりはありません(第三者に対する思いやりはあるかもしれませんが)
 
このようなことを突き詰めて考えいくうちに、私は道徳とはなにかについての最終的な解答を得て、「科学的倫理学」を確立したのです
そういう意味では、すべてのものに感謝しなさいといった先生のおかげかもしれません。先生には感謝しています。