作家の柳美里さんは2010年出版の「ファミリー・シークレット」で自分自身の幼児虐待と被虐待の体験を告白しましたが、芸能界では東ちずるさんが2002年に「“私”はなぜカウンセリングを受けたのか―『いい人、やめた!』母と娘の挑戦」で自分自身の被虐待の体験を告白しています。この2人ともに心理学者の長谷川博一氏がからんでいます。自身の被虐待体験に向き合うには、カウンセラーの助けが大きいということでしょう。
しかし、この2人に先だって、自力で被虐待体験を告白した芸能人がいます。それは飯島愛さんです。
飯島さんは2000年に「プラトニック・セックス」を出版し、子ども時代に両親から虐待され、中学時代から家出を繰り返した体験を告白しました。有名人で自分が親から虐待されたことを告白したのは飯島さんが最初ではないでしょうか(内田春菊さんは1993年の「ファザーファッカー」で性的虐待の体験を書いていますが、これは小説ですし、義理の父親との関係です)
 
「プラトニック・セックス」はミリオンセラーになり、社会現象になりました。しかし、共感したのは若い女性が多く、有識者からはあまり評価されませんでした。タレント本であり、しかもゴーストライターが書いたものだということも評価されない理由だったでしょう。
 
しかし、私の考えでは、そういうこととは別に、この本には致命的な問題があります。それは、本の前半部では自分を死ぬほど殴っていた父親と、本の最後の場面では、なごやかにビールを酌み交わすのです。つまり親と和解してハッピーエンドになっているのです。
これはいくらなんでもありえないだろう、というのが私の感想です。
文庫版解説の作家の大岡玲さんも、この幸せな大団円では「文学になりかけの胎児」である、つまり真の文学にはならないと苦言を呈しています。
おそらくは出版社や所属事務所の意向でこうした結末になったのでしょう。確かに2000年当時ではこうした結末でないと受け入れられないという人も多かったかもしれません。
しかし、これは飯島さん自身の思いとはかけ離れた結末だったはずです。
 
では、飯島さんの思う通りの結末とはどんなものでしょうか。
これがひじょうにむずかしい。これからも親を恨んで生きていくというのは、ある意味自然な結末ですが(AV嬢のインタビューを集めた本で、「親に復讐するためAV嬢になった」といっている人がいました)、それでは飯島さんも含めて誰も納得しないでしょう。
いちばんいいのは、飯島さんを虐待した両親も子ども時代に親から虐待を受けていたかわいそうな子どもだった、そのことを知って飯島さんは両親を許す気になる、というものです。もし長谷川博一氏がかかわっていたら、そういう結末になったはずです。
しかし、飯島さんが自力でそういう認識に到達できるはずはなく、おそらく飯島さんも結末がつけられなかったので、出版社や事務所があのような結末にしたのだと思います。
 
しかし、飯島さんはあの結末では納得がいかなかった。一世一代の告白をして、そのことによってなにかが変わるかもしれなかったのに、告白そのものが骨抜きにされてしまったのですから。
結局、飯島さんは自分を見失ってしまいました。ほんとは親との関係はなにも変わっていないし、まだ親の愛に飢えているのに、周りの人は飯島さんは親の愛を取り戻して幸せになったと思っているからです。
 
飯島さんの死は自殺ではないようですが、多くの人は限りなく自殺に近いものと受け止めているのではないでしょうか。
飯島さんをそういうところに追いやったのは、被虐待体験の告白を正面から受け止めようとしなかった出版社や事務所(それに世の中)だというのが私の考えです。
 
もっとも、世の中の価値観と違う告白が受け入れられないのはよくあることです。
たとえば、三島由紀夫は「仮面の告白」で自分が同性愛者であることを告白しましたが、当時の価値観では受け入れられず、かといって作品の文学的価値があまりにも高いために否定もできず、あくまでフィクションだということで受け入れられました。三島由紀夫はほんとうの自分を世の中に受け入れてもらえなくて、結局自殺することになってしまいました。
また、歌手の佐良直美さんはレズビアン体験を告白したために、芸能界から引退を余儀なくされました。
 
飯島愛さんはあまりにも先駆者でありすぎたのかもしれません。