私は、覚せい剤で複数の逮捕歴のある芸能人の誌上対談の原稿を担当したことがあります。そのとき、彼がなぜ覚せい剤にはまってしまったのか、そしてなぜ覚せい剤を断つことができないのかがわかった気がしました。
 
対談のテープ起こし原稿を読むと、明らかにつじつまの合わないところがいくつもありました。前にいったことと、あとでいったことが違うのです。その意味で、ロス疑惑の三浦和義さんの原稿と似ています。
(三浦和義さんについては「ロス疑惑についての一考察」で書いています)
 
私は原稿を読んで頭をかかえました。明らかに矛盾したことを書くわけにはいきません。文章のテクニックでごまかすことはできますが、あいまいなところがいっぱいある文章はつまらなくなります。
このときはまだウィキペディアも充実していなくて、ネットで調べてもわかりませんでした(ちなみにウィキペディアは芸能人の情報が多いということでよく批判されますが、メディアの仕事をしている人には確実に喜ばれていると思います。インターネットが発達する以前、なにが調べにくいかというと、芸能関係の情報なのです。わからないことは図書館に調べに行くことになりますが、芸能関係の情報は図書館にほとんどないからです)
 
私は繰り返し原稿を読み、どれが正しい事実なのかを考え、そして、ついに真実にたどりつきました。
彼が自分から先に話したことは事実なのです。しかし、対談相手がそれを誤解することがあります。
たとえば、彼が「22歳のときに大きな転機がありました」といったとします。それからほかの話題に移り、また転機の話に戻ったとき、対談相手が「転機は20歳でしたね。そのときあなたは……」といったとします。彼はそれを訂正しないのです。そのため、転機があったのは20歳のときという前提で話が続いていくので、前半と後半が違ってくることになります。
対談をしていると(対談に限りませんが)、当然誤解が生じることがあります。それは当然、そのつど訂正して対談を続けていかなければなりません。
彼は相手の話をさえぎって、「いや、そうじゃなくて、転機があったのは22歳のときです」というべきなのです。
しかし、これは“話の腰を折る”という行為です。一瞬、話の流れが断たれます。
彼は“話の腰を折る”ことができないのです。そのため、対談相手の誤解は放置され、いったん放置された以上、あとになって訂正することもできなくなります。
22歳と20歳というのは目に見えやすい誤解ですが、目に見えにくい、つまり水面下の誤解というのもあります。それも全部放置されます。そのため、対談の原稿を読むと、矛盾だらけになってしまったのです。
私は、この人は“話の腰を折る”ことができない人なのだ、相手の誤解を訂正しない人なのだという前提で原稿を読みました。そうするとすべてのことが矛盾なく、明快に解釈できたのです。
それによって、なんとか対談原稿をまとめることができました。
 
この人はなぜ“話の腰を折る”ことができなかったのでしょうか。それは、気が小さかったからです。瞬間でも、相手の不興を買うようなことができなかったのです。
私は対談原稿をいっぱい担当しましたが、こんなに気が小さい人は見たことがありません。若い女性タレントでも、自分について誤解されればすぐに訂正します。
 
この、複数の逮捕歴のある芸能人は、実はコワモテの役柄を演じることを得意とする役者でもあります。あのコワモテのイメージの人が、実際はひどく小心者であったのです。
このイメージの落差、つまり外面と内面の差をとりつくろうには、相当な精神的エネルギーがいったでしょう。それに疲れ果て、つい覚せい剤に手を出してしまう。そういうことだったのではないでしょうか。
 
芸能人に限らず、繰り返し覚せい剤に手を出す人は、意志が弱いと非難されます。
しかし、その人のことを深く知れば、そんな意志の問題ではないことがわかってきます。
覚せい剤に手を出す人は、非難されるべき人ではなく、救済されるべき人です。