社会生物学者のエドワード・O・ウィルソンは、社会科学や人文科学はやがて生物学によって統合されるだろうと述べ、猛烈な反発を買いました。現実にも生物学が社会科学や人文科学を統合するような流れにはなっていません。ウィルソンの野望はなぜ達成されないのでしょうか。
それを考えるためにも今日はこの本をとりあげました。2009年出版の本ですが、昨日のエントリーで小田亮著「利他学」をとりあげた流れです。
 
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内藤淳著「進化倫理学入門」光文社新書
 
内藤淳さんはもともと法学畑の人ですが、生物学的な観点から人間をとらえて研究を行っているということで、この本もきわめて意欲的ものといえます。
新書らしく平明な文章で書かれていて、一見わかりやすく、おもしろそうですが、実際のところはそうではありません。インターネットで本書の書評や感想を調べてみると、はっきりいって悪評サクサクです。私自身も同じ感想です。
とはいっても、倫理学の本といえばつまらないものと決まっています。図書館や大型書店で倫理学の棚を見てみると、どれもこれもつまらなさそうな本ばかりです。本書も例外ではなかったということです。
しかし、本書は進化倫理学を名乗っています。進化倫理学も普通の倫理学と同じなのかと思われると困ったことですし、その意味で本書は罪つくりでもあります。
 
もっとも、内藤淳さん自身は、進化倫理学を名乗るのは当然だと思っているでしょう。というのは、内藤さんはダーウィンの説を踏襲して本書を書いたからです。
しかし、ダーウィンの説だからといって、すべてが正しいわけではありません。そこのところを検証してみましょう。
 
ダーウィンは「種の起源」を出版した12年後に「人間の進化と性淘汰」を出版し、そこで道徳の起源について述べました。
ダーウィンによると、社会性動物には親が子の世話をしたり、仲間を助けたりという利他的性質があり、人間はその利他的性質をもとに道徳をつくりだしたということです。
人間は道徳をつくりだしたことでさらに利他的行動をするようになり、そうして人間は道徳的な存在になったというわけです。
ダーウィンの進化論は、当時の人々の人間観をくつがえす革命的なもので、そのため大きな反発を招きました。今でもアメリカには進化論を否定する人がたくさんいます。しかし、ダーウィンの道徳起源説にはなんの反発も起きませんでした。なぜなら、それは革命的なものではなく、当時の人々の価値観と基本的に同じだったからです。
ダーウィンは道徳の起源を考えるときに、世の中に妥協してしまったのです。
ですから、法学畑の内藤さんもダーウィンの道徳起源説を抵抗なく受け入れ、“進化倫理学”の本を書くことができたというわけです。そして、それは当然ながら、従来の倫理学の本と同じものになってしまいました。
 
道徳の起源については、ダーウィン説のほかにもうひとつ考えられます。
動物は基本的に利己的なものであり、人間はその利己的性質をもとに道徳をつくりだしたというものです。
人間は道徳をつくりだしたことでさらに利己的になり、互いに激しく争ったり、支配したり、抑圧したりするようになったというわけです。
こちらのほうが本物の進化倫理学だと思います(内藤さんの“進化倫理学”と混同されては困るので、私は「科学的倫理学」と呼ぶようにしているのですが)
 
本書では、「嘘をついてはいけない」と子どもに教える理由について、嘘をつくと損をするからだというふうに説明されています。
道徳を損得のレベルで理解しようとするのは進化倫理学的に正しいのですが、正しいのはそこだけです。あとは全面的に間違っています。嘘をつくと得する場合はいっぱいあります。
では、正しい説明とはなんでしょうか。私はこんなふうにいいます。
「嘘をついてはいけない」と子ども教えるのは、嘘をつかれるとこちらが損をするからです。
「人に迷惑をかけてはいけません」と教えるのは、こちらに迷惑をかけられると損をするからです。
「人に親切にしなさい」と教えるのは、こちらに親切にしてもらうと得をするからです。
このように考えると、道徳がすべて損得のレベルで理解できます。
これこそが本物の進化倫理学です。
 
 
ウィルソンはダーウィンの間違いを訂正していません。そのためウィルソンの野望は達成されないのです。 
内藤さんには、人間は利己的性質から道徳をつくりだしたという考えのもとに、本書を書き直していただきたいと思います。