市橋達也被告が公判の場で被害者両親に土下座して謝罪し、また本の印税を被害者遺族への弁償にあてると表明しました。日ごろ、殺人事件の被告が法廷で遺族に対して謝罪の言葉を述べないことを批判しているマスコミは、きっぱりと謝罪した市橋被告の態度を絶賛した――なんてことはもちろんありません。罪を軽くするための演技である可能性があるからです。
 
それにしても、市橋被告は一般的な凶悪事件の犯人とはかなり異質です。謝罪の土下座をするというのは、不祥事を起こした企業経営者がするのと同じです。2年7カ月も逃亡生活を送れたということは、かなり現実的な判断ができるのでしょう。また、市橋被告は捜査員が自宅にきたとき、靴もはかずに逃げ出し、逃げおおせました。瞬間的な判断力と行動力に長けているのでしょう。
ということは、リンゼイさん殺しにそれほど計画性はなかった可能性が高いと思われます。なんとか2人きりになりたくて、2人きりになるとレイプしたくなり、レイプした以上監禁せざるをえなくなり、リンゼイさんが逃げ出そうとしたので押さえ込み、死んでしまったというようなことではないでしょうか。
 
ともかく、マスコミは市橋被告の謝罪を称賛はしないまでも非難はしません。一方で、法廷で謝罪や反省の態度を見せない被告は非難します。
ということは、どういうことかわかるでしょうか。マスコミは凶悪事件の被告たちを偽りの謝罪や反省に導いているのです。
これは昨日の「嘘つきな子のパラドックス」というエントリーで述べたことでもあります。マスコミは自分たちのやり方を反省しないといけません。
たとえば、不祥事を起こした企業がきちんと謝罪しないと、マスコミは非難します。謝罪すればとりあえずマスコミは非難しません。演技の謝罪であっても同じです。演技という証拠はないからです。その結果、どの企業も経営者や担当者がずらりと並んで深々と頭を下げる光景が見られるようになり、さらには土下座する光景が見られるようになりました。
 
マスコミが謝罪しない被告を非難し、謝罪した被告は非難しないというやり方を続けていると、そのうちどの凶悪事件の裁判でも、被告が土下座するという光景が見られるようになるかもしれません。
もちろんその光景は、真の謝罪や反省を意味するものではありません。
 
もっとも、実際にはそのようなことにはならないでしょう。凶悪事件の犯人は多くの場合、反省の態度を示しません。反省の態度を示せば刑が軽くなるのにしないということは、現実的な判断力に欠けているということです。凶悪事件の犯人たちは、そういう意味ではあわれな存在です。
その点、市橋被告はかなり異質な存在です。間違って凶悪事件の犯人になってしまったという感じがします。
 
ともかく、反省の態度を示せば罪が軽くなるのに反省の態度を示さないというのは、自分を偽ることができないということであり、正直という美徳を有しているということです。
今後マスコミは、法廷で反省の態度を示さない被告について、「自分が不利になるとわかっていても、ありのままの気持ちを示したのは立派だ」と、その部分に関しては称賛していただきたいものです。