植村花菜の「トイレの神様」は困った歌です。これを愛の歌といってもいいのでしょうか。道徳の副読本に載せられてしまいそうなあやうさがあります。
 
ひじょうに長い歌詞なので、全部読みたい方は次のサイトで読んでください。
 
この歌の主人公はおそらく植村花菜さん自身なのでしょうが、なぜだか実家の隣でおばあちゃんといっしょに暮らすようになり、毎日お手伝いをし、2人で五目並べをし、買物に出かけて鴨なんばを食べ、おばあちゃんに新喜劇の録画を頼んだりしています。楽しそうな生活ですが、ひとつおばあちゃんに嘘をつかれます。それは、トイレにはきれいな神様がいるので、トイレを毎日きれいにしたら、「女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで」というものです。
歌の主人公はなぜだかその嘘を信じて、べっぴんさんになりたくてトイレを毎日磨くようになります。
 
しかし、その後、「少し大人になった私」は、おばあちゃんとぶつかって、家族ともうまくやれなくて、居場所がなくなります。しかし、その理由は書いてありません。「どうしてだろう?人は人を傷付け、大切なものをなくしてく」と一般論に逃げています。
 
そして、おばあちゃんが死に、歌の主人公は愛惜の思いとともに繰り返し思い出すのは、トイレの神様の話です。なぜ五目並べをしたことや鴨なんばを食べたことなどの楽しい思い出ではないのでしょう。
 
おばあちゃんといい関係だったのは小さいときだけで、そのあとはうまくいかなくなります。また、実家の両親のことはいっさい書かれていませんが、当然よい関係ではなかったのでしょう。なぜ隣の実家で暮らせなかったのでしょう。もしかして親から捨てられていたのでしょうか。
 
私はジョン・レノンのことを思い出します。
ジョン・レノンは生まれてすぐ両親から捨てられ、おば夫婦のもとで育ちます。父親が引き取りにきて、父親と数週間いっしょに暮らしますが、今度は母親が引き取りにきます。しかし、また母親に捨てられ、結局またおば夫婦のもとに戻ります。つまりジョン・レノンは親から二度捨てられたのです。その一方的な関係をジョン・レノンは「マザー」という歌で表現しています。
Mother,you had Me  I never had you (母さん、僕はあなたのものだったが、あなたは僕のものじゃなかった)
これが第一行目です。そして、最後はGoodbyeです。
 
ジョン・レノンは自分と親との関係を正しく把握し、愛と愛でないものをきっちりと区別しました。だから、真の愛を歌うことができたのです。
 
私が思うに、植村花菜さんは愛と愛でないものが区別できていません。いわばクソもミソもいっしょにしています。いや、クソをむりやりミソに見立てようとしています。「トイレの神様」は約10分という異例の長さですが、紅白で歌詞を省略することなく歌うことが認められました。なぜ認められたかというと、クソをミソに見立てるという困難な作業は、一部でもカットするとできなくなるおそれがあるからでしょう。
 
「トイレの神様」の主人公は、親との関係から逃げ、おばあちゃんとうまくいかなかったときから逃げています。病院に見舞いに行ったときも、「ちょっと話しただけだったのに『もう帰りー。』って病室を出された」わけですから。
 
それにしても、おばあちゃんの思い出の中でいちばんたいせつな思い出がなぜトイレの神様の話なのでしょうか。
 
ジョン・レノンは「イマジン」でこうも歌っています。
Imagine there’s no heaven(想像してごらん天国はないと)
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And no religion too(宗教もない)
 
「トイレの神様」の主人公は今日もせっせとトイレをピカピカにします。べっぴんさんになれるはずもないのに。
ジョン・レノンが見ていたらなんというでしょうか。