私は実はSFとホラーの作家なのですが、このブログではそれらしいところがぜんぜん出ていません。期待されながらちっとも小説を書かなかった引け目があるからでもありますが、一応作家という肩書でやってますので、それらしいところも少しずつ出していきたいと思います。
 
というわけで、「荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論」(集英社新書)を読みました。ホラー映画論の本なのにけっこう売れているみたいです。私はひじょうに共感して読みました。ですから、書評は書けません。「ごもっともです」みたいなことばっかりになってしまうからです。
ただ、ちょっと関連して書きたいことがあるので、それを書いてみます。
 
宮崎勤の幼女殺し事件以降、なにか猟奇的な犯罪が起きるとホラーとの関連が取りざたされ、ホラーが悪役にされてきました。私はなんとかホラーを擁護する文章を書きたいものだと思いましたが、その当時はうまく書けませんでした。というのは、ホラーに対する思い入れが強すぎて、冷静な文章が書けなかったからです。
 
荒木飛呂彦さんは本書の冒頭のほうで、ホラー映画の効用について書いています。
「少年少女が人生の醜い面、世界の汚い面に向き合うための予行演習として、これ以上の素材があるかと言えば絶対にありません」
「娯楽であり、誇張された内容ではあっても、ホラー映画が描いているのは人間にとってのもう一つの真実、キレイでないほうの真実だということです」
ひじょうにわかりやすく、的確に書かれています。
 
このようにホラー映画には効用があって、ホラー映画有害論などはもってのほかです。
有害な映画はもっとほかにあります。
 
ここからは私の考えになりますが、有害な映画はたとえば正義のヒーローが悪人を殺す映画です。
ホラー映画では、人が死ぬ場面はこれでもかとばかりに残酷に描かれます。しかし、ヒーローが悪人を殺す場面は、せいぜい血が流れるくらいで、残酷さが消され、爽快な行為、カッコいい行為として描かれます。つまり殺人が美化されているのです。
よい子が見たら、人を殺すとはこういうことかと思うかもしれません。
 
また、戦争映画もたいていは有害です。カッコよく敵兵を殺す映画がいっぱいあります。中には戦争の悲惨さや残酷さを描く映画もありますが、それは個々の場面だけであって、映画全体としては、男たちは勇気と誇りをもって戦ったとか、ひ弱な新兵がたくましい兵士に成長したとかいうように、美化して描かれます。こういう映画は、各国の為政者には見せたくないものです。
 
つまり、ホラー映画は残酷なことを残酷なこととして描いているのです(多少の誇張はありますが)。しかし、正義のヒーローが活躍する映画や戦争映画は、残酷なことを美化して描いているのです。いったいどちらが有害かはいうまでもないでしょう。