倫理について考えるとき、ドストエフスキーの「罪と罰」は避けて通れません。とはいえ、私はドストエフスキーは苦手です。生家に世界文学全集があったので、高校生のころ「カラマーゾフの兄弟」と「白痴」にチャレンジしましたが、すぐに挫折し、30代に「罪と罰」にもチャレンジしましたが、3分の1ぐらいまで読んでやはり挫折しました。ドストエフスキーで読み終えたのは、短い「地下生活者の手記」だけです。
ですから、今も「罪と罰」は読み終えていません。しかし、ストーリーぐらいはわかります。ここで「罪と罰」を取り上げるのは、「罪と罰」のストーリーが倫理について考えるとき、きわめてよい手がかりになるからです。文学作品として評価するわけではないので、ご容赦ください。
 
というわけで、ストーリーはウィキペディアの「罪と罰」の項からそのままコピーします。
 
頭脳明晰ではあるが貧しい元大学生ラスコーリニコフが、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の犯罪理論をもとに、金貸しの強欲狡猾な老婆を殺害し、奪った金で世の中のために善行をしようと企てるも、殺害の現場に偶然居合わせたその妹まで殺害してしまう。この思いがけぬ殺人に、ラスコーリニコフの罪の意識が増長し、発狂していく。しかし、ラスコーリニコフよりも惨憺たる生活を送る娼婦ソーニャの家族のためにつくす徹底された自己犠牲の生き方に心をうたれ、最後には自首する。人間回復への強烈な願望を訴えたヒューマニズムが描かれた小説である。
 
 
このストーリーは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題を考えるのに最良の材料となってくれます。
自分は世の中に貢献しうる有能な若者だが、お金がなくて生活もままならない。このままでは社会に埋もれてしまう。一方、高利貸しの老婆アリョーナは強欲狡猾で、生きていても世の中にはなんの貢献もしない。自分が世の中に貢献するなら、金を奪うために老婆を殺すことは許されるのではないか。ラスコーリニコフはこのように考えたわけです。
自分が有能な若者だというのはラスコーリニコフの主観ですし、高利貸しも多少は世の中に貢献している面もあるはずです。そのへんに目をつむって、ラスコーリニコフは有能な若者で、高利貸しの老婆アリョーナはただ邪悪なだけの存在だとすると、ラスコーリニコフの理屈はなかなか強力です。
ラスコーリニコフは老婆の妹を殺害したことについては罪の意識にとらわれますが、老婆を殺したことについては罪とは考えていません。これは最後まで同じです。
 
老婆を殺すのは罪だということをラスコーリニコフに納得させるためにはどう言えばいいのでしょうか。それとも、ラスコーリニコフの考えは正しいのでしょうか。
 
私ならもしかしてラスコーリニコフに老婆殺しの罪を自覚させることができるかもしれません。
ここで重要なのは娼婦ソーニャの存在です。彼女はアル中で働かない父親のためにみずから娼婦になって家族に尽くしています。ラスコーリニコフはソーニャの純粋な魂に触れることによって人間らしい心を取り戻し、自首します。
さて、ソーニャはこのあとどんな人生をたどるでしょうか。一度娼婦になった女性、しかも家族に恵まれない女性に明るい未来があるとは思えません。純粋な心を持っているだけに、人にだまされることもあるでしょうし、さまざまなむごい仕打ちにもあうでしょう。何度も傷つくうちに、純粋な心は失われ、しだいに人間不信の念がつのっていきます。父親もそのうち死にます。そうなると頼りになるのはお金だけです。年をとれば娼婦としての価値も下がります。稼げるうちに稼がねばなりません。ソーニャは必然的に金に汚い女になります。娼婦として働けない年になったとき、金貸しで生計を立てるようになっていても不思議ではありません。そうです、ソーニャは強欲狡猾な高利貸しの老婆になるのです。
 
この作品はみごとな円環構造になっています。殺された老婆アリョーナも、最初から邪悪な心の持ち主だったわけではありません。若いときにはソーニャのような純粋な心を持っていたのです。つらい人生を生きるうちに強欲狡猾な老婆となったのです。
私はラスコーリニコフに、ソーニャもいずれはアリョーナのような強欲狡猾な老婆になり、アリョーナもかつてはソーニャのように純粋な心を持っていたのだ、つまり、あなたが殺したのは年取ったソーニャにほかならないのだと言って説得します。ラスコーリニコフが説得されるかどうかはわかりませんが、これ以外に説得する論理はないと思います。
 
ラスコーリニコフに限らず世の人々は、こっちの人はよい人だが、あっちの人は悪い人だと考えています。しかし、生まれたときはみな同じ人間だったのです。その境遇によって、よい人にもなれば悪い人にもなるのです。また、今はよい人もいずれは悪い人になることもあるのです(悪い人がよい人になることは残念ながらめったにありません)
 
警察司法関係者は、自分たちは有能で社会に貢献する人間で、犯罪者は邪悪で社会に貢献しないか害をなす人間で、だから自分たちは犯罪者を殺したり刑務所に入れたりしてもいいのだと思っています。つまり、ラスコーリニコフの理屈と同じなのです。
警察司法関係者がみずからの罪に目覚める日はくるのでしょうか。