このところ2ちゃんねるについて書いているので、その続きです。
2ちゃんねるの特徴として、つねに論争が行われているということが挙げられます。これは、テーマの細分化されたスレッドがあり、スレッドは一覧性があって、アンカーをつけることで誰に対する発言かを明確にできるといった2ちゃんねるの特性からきているものかと思われますが、2ちゃんねるで行われている論争はリアルで行われている論争とは根本的に違います。
リアルでは、「そんなことを言ってるお前はどうなのだ」という反論がつねに可能なので、ある程度の言行一致が求められます。しかし、匿名掲示板では、発言者がどんな人間なのかはまったくわからないので、純粋な論理だけの論争になる傾向があります。論理というのは、もちろん論理学的な論理という意味もありますが、そうした場合は矛盾や間違いを指摘されたほうが負けですから、論争は割と早く決着します。しかし、それ以外に、“道徳の論理”というべきものがあり、これはいくら議論しても決着しないので、2ちゃんねるで行われている論争の大部分はこの“道徳の論理”を用いたものです。
 
政治問題や犯罪に関する論争は、基本的に善悪や正義に関することですから、“道徳の論理”によって行われます。そして、この論争を続けていると、現実離れをした極論に行きついてしまいます。
リアルの論争では、「正義の追求はほどほどにしておいたほうがよい」とか「悪を徹底的に排除しようとしてもうまくいくものではない」といった主張が一定の説得力を持ちます。しかし、これは“生活の知恵”ともいうべき経験則ですから、純粋な論理で行われる論争では力を持ちません。そのため極論に行きついてしまうのです。
 
一例を挙げれば、2008年、女子大生がイタリアのフィレンツェの大聖堂に落書きをしたことが問題となり、議論が暴走した挙句に、落書きをした女子大生が学長に伴われてフィレンツェを訪問し、大聖堂の関係者や市長に謝罪し、泣きながら謝る女子学生を逆に向こうがなだめることになってしまいました。日本人はへんな国民だと思われたに違いありません。
こうした事態になったのは、2ちゃんねるでの議論が女子大生をバッシングする方向に過熱したからではないかと思われます。常識的な判断としては、「落書きはよくないが、それほどのことではない」とか「謝りに行っても落書きが消えるわけでもないし」といったところでしょうか。
 
2ちゃんねるは、原始的な道徳が暴れ回るサファリパークのようなところです。そこには人類が長年かけて学んできた「正義の追求はほどほどにしておいたほうがよい」という抑制装置がありません。
2ちゃんねるを見ていると、私が主張する「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」ということがよくわかるでしょう。