「寛容」や「温情」というのも道徳の範疇、つまり徳目に数えられます。しかし、「寛容」や「温情」はもともと影の薄い徳目で、とくに最近はほとんど忘れられた存在になっています。
ある種のトランプゲームでは、札の強さがルールで決まっていて、強い札は必ず弱い札に勝ちます。道徳でも徳目によって強さが決まっていて、「寛容」や「温情」は弱い部類に入ります。とくに「正義」をぶつけられると必ず負けます。
「正義」は道徳の中でも最強の徳目です。これに対抗するには、「利害」カードをぶつけるしかありません。たとえば「正義の戦争」を止めようとしたら、「そんなことをしたら株価が暴落する」とか「国家財政が危機に陥る」とか言うのがいちばん有効です。
 
たとえば、ある犯罪者に対して、「寛容」な心で「温情」判決を出してほしいと望む声が上がるときがありますが、そういうときは必ず厳罰を求める「正義」の声も上がります。その結果、ほとんどの場合「正義」の声が勝つことになります。
ですから、「寛容」や「温情」はあまり大きな声では主張されません。たとえば、学生のカンニングが発覚したとき、もう就職まで決まっているからと、「寛容」や「温情」で見逃すということが昔から行われてきました。これはもちろん人目につかないところで行われるのです。もし一般に知られたら、「不正を見逃すのか」とか「まじめにやっているほかの学生がバカを見る」などと「正義」の声が上がって、つぶされてしまいます。
ですから、「寛容」や「温情」は「裏道徳」といったほうがいいでしょう。「正義」のカードをぶつけられないように、社会の裏側で実行されてきたのです。
 
「寛容」や「温情」が「裏道徳」だとしたら、「正義」を中心とする道徳は「表道徳」ということになります。
「裏道徳」とか「表道徳」というのは、もちろん私の造語です。しかし、このように考えると道徳がわかりやすくなります。
 
「表道徳」は利己心を基礎としています。したがって、強力です。
「裏道徳」は利他心を基礎としています。したがって、「表道徳」より弱く、裏の存在となっています。
 
“正義の怒り”という慣用句があるように、「正義」は怒りから生じます。
「寛容」や「温情」は愛情から生じます。
 
つまり「表道徳」は利己心と怒りと結びついており、「裏道徳」は利他心と愛情と結びついています。
 
愛情と結びついた「裏道徳」が弱いというのは意外に思う人がいるかもしれませんが、現実はそんなものです。愛情のある人と怒りのある人が戦ったら、怒りのある人が勝ちます。世の中で支配的立場にある人はほとんどが怒りのある人です。
 
「表道徳」が支配するこの世の中はろくなものではありません。「裏道徳」こそ表にならなければいけないでしょう。
正確には、「表道徳」と「裏道徳」が正しく統合されなければならないと思います。