古代ギリシャのデルフォイの神殿に書かれていたという「汝自身を知れ」、これが西洋哲学の出発点です。しかし、いまだに誰もこの神託に答えを出していません。そこで、私が自分なりに答えてみましょう。
それは、
「私は悪人である」
というものです。
 
もちろんこれは私自身だけでなく、誰もがそうだということです。誰もが自分は悪人なのに、それに気づかず、あいつは悪人だ、こいつも悪人だと他人を評価しているのですから、まったく愚かなことです。他人を悪人だと思うなら、自分も悪人である可能性があることになぜ気づかないのでしょう。
 
もっとも、「悪」というのは不明確な概念です。そこで、「悪」を「不当に利己的」と表現することにしましょう。
 
人間は誰も、自分の利益と他人の利益を同じに考えることはできません。たとえば、買物をしたとき、渡された釣り銭が少ないと、すかさず文句を言います。しかし、渡された釣り銭が多いと、同じように文句を言うかというと、そんなことはないでしょう。黙っているかもしれません。つまり、非対称になっているのです。
隣の家と敷地の境界線を巡って争っていることはしばしばありますが、それはもちろん、自分の家の敷地を広くするために争っているのです。決して譲り合って争っているわけではありません。尖閣諸島、竹島、北方領土などの領土問題も同じです。譲り合っているわけではありません。
 
なにが公平かが明確になっている場合は、不当に利己的な主張をする人はまずいません。自分がみんなから批判されるからです。しかし、なにが公平かはっきりしない場合も多く、その場合は、誰もが少し多めに利益を得ようとします。それは進化の過程で獲得された性質なのです。
 
そのため、つねに利益を巡る争いが起きます。それはなわばりを持つ動物がつねになわばり争いをするのと同じです。
 
ですから、各自が利益の主張を少しずつ抑えれば、争いのない社会が築ける理屈です。
 
しかし、人類は、自分の利益を抑えるのではなく相手の利益を抑えることで問題を解決しようとしました。これはまったく間違ったやり方です。そのため、人類はどの動物よりもよく争う動物になってしまいました。しかし、人類はいまだにこの間違いに気づいていません。
 
振り返れば、血まみれの道です。
 
「自分は少し不当に利己的な人間である」ということにみんなが気づくのはいつの日でしょうか。