図書館でたまたま呉智英さんの「健全なる精神」(双葉社)を見つけたので、借りてきて読みました。呉智英さんの本を読むのは久しぶりです。
以前、私は呉智英さんを大いに尊敬していました。日本の思想家の中で、一時は最先端をいっていたと思います。封建主義の立場から近代主義的価値観を批判するやり方で、固定観念を大いに揺さぶられました。圧倒的に博識ですし、つねに常識にとらわれない発想のできる人です。「バカにつける薬」というベストセラーもありました。評論家の宮崎哲弥さんや「ニセ学生マニュアル」などの著書がある浅羽通明さんも呉智英さんを尊敬して私淑しています。
 
しかし、呉智英さんはどこかで壁にぶつかって、失速してしまいました。時期としては、「論語」を若い人に講義する私塾を始めたころではないかと思います。「論語」を講義するということは、自分は孔子を越えないというふうに自己規定したのでしょう。全面的に越えなくても、どこか一点でも突破してやろうという気構えがなければ、思想家としては終わりかもしれません。
 
呉智英さんはもともとサブカルチャー側に立っていた人ですが、文芸春秋や産経からお座敷がかかって、いつのまにかただの保守親父になってしまいました。
 
「健全なる精神」はおもしろく読んだのですが、呉智英さんはそこで人権主義者が差別を糾弾するのを批判しています(これは以前からです)。実際、人権主義者の多くは知的に怠慢で、人権屋とでも呼ぶべき人も多いでしょう。しかし、呉智英さんは人権屋を批判して、真の人権思想に目覚めよといっているわけではありません。人権思想そのものを否定しているのです。
これはある意味、呉智英さんの思想のラジカルなところですが、では、人権思想に代わるものはなにかというと、なにもないのです。
呉智英さんは「差別は正しい」と言い、「目指すべきは『差別もある明るい社会』である」と言っています。しかし、「差別もある明るい社会」なんてあるのでしょうか。ただの言葉の遊びとしか思えません。「明るいカースト制社会」とか「明るい奴隷制社会」とか、見てみたいものです。
いや、それどころか、呉智英さんは人権思想を否定しているのですから、現代に奴隷制復活を主張する人が現れたら、どのようにして反対するのでしょうか。経済合理性を挙げて反対することはできますが、思想的に反対できないのではないでしょうか。
 
とはいえ、呉智英さんに「差別は正しい」なんて言われると、うまく反論できない人が多いのではないかと思います。それは誰も差別主義というものを正しくとらえていないからです。
いや、私は別です。私はもしかして世界で1人かもしれませんが、差別を正しくとらえています。
私の考えでは、家庭や学校で「よい子」と「悪い子」を分け、「悪い子」を迫害することが差別の始まりです。「悪い子」を差別している限り、社会の差別をなくすこともできません(だから、へんてこな糾弾しかすることがなくなってしまうのでしょう)。
ですから、「差別もある明るい社会」を目指すのではなく、「差別も道徳もない明るい社会」を目指すべきなのです。
 
私の差別主義についての考え方は「これからの『差別』の話をしよう」というエントリーを参照してください。
 
 
「健全なる精神」には、暴力団のことも出てきます。20064月、山口組の歴代組長の法要が比叡山で行われ、新聞各紙は全部が非難めいた調子で報道したそうで、呉智英さんは山口組が法要をしてはなぜいけないのかと、その報道姿勢を批判しています。こういうところは呉智英さんもただの保守親父ではありません。
もっとも、呉智英さんが山口組の法要を擁護するのは、宗教上死者の霊は同価値だという理屈からです。これは無宗教の人には通用しない理屈です。
私なら、山口組だって人間だから、普通の人間と同じように法要していいはずだと主張します。つまり人権思想です。これは誰も否定できないはずです。