呉智英さんの思想的探求が壁にぶつかり、失速してしまった理由は、呉智英さんが教育というものをうまくとらえられなかったことにあると思います。教育を正しくとらえないと人間も正しくとらえられませんし、学校制度がわからないと近代という時代もわかりません。
「健全なる精神」(双葉社)所収の「ゆとり教育はエリートの教育」にこんな文章があります。
 
教育に、ゆとりものびのびもありはしない。個性を伸ばすも創造力をつけるもへったくれもない。教育は、つめこみ以外の何ものでもない。型を押しつける以外に教育があろうはずがない。
詩人高村光太郎の父である彫刻家高村光雲の自伝『幕末維新懐古』(岩波文庫)によれば、その頃、江戸の庶民の子供は、12歳になればみな奉公に出た。手に職をつけるのである。むろん、体力のなさそうな子が大工の道を選ぶことはないし、内気で口下手な子が商家に奉公はしない。それでも、行く道の種類は限られている。のびのびも、自己実現も、カケラさえない。それで何の問題もないのである。光雲のような突出した才能も、そこから出現している。
 
これはあきれた文章です。なにがあきれたかというと、教育の話をしているのに奉公を持ち出しているからです。奉公とは言うまでもなく労働です。江戸の庶民の子供は、幕末ならほとんど寺子屋に行きました。武士の子なら藩校に行きます。教育の話をするなら、寺子屋や藩校を持ち出さなくてはなりません(12歳というのは今でいえば中学入学の年齢ですから、当然その前に寺子屋に行っているはずです)
呉智英さんはなぜこんなバカバカしい間違いをしたのでしょうか。無意識になにかから逃げているのでしょうか。
 
江戸時代の寺子屋は当然今の学校と大きく違います。
「寺子屋について」http://www.tanken.com/terakoya.html
というサイトからコピーします。
 
手本は師匠が自分で手書きして生徒に与えたから、職工の家の子供には「商売往来」ではなく「番匠往来」、百姓の子供には「百姓往来」を与えるのが普通で、まさに個人教育だったといえる。
 いわゆる山の手の武家が多い地域では、士風養成のため「千字文」「唐詩」を課すことが多く、日本橋や京橋といった下町では商家相手だから「八算(はっさん・29の割り算)」「見一(けんいち・割り算の概算)」「相場割」など牙籌(がちゅう・象牙のそろばん)のことを併せて教えた。

 これ以外には、男の希望者に「実語教(じつごきょう・道徳の教科書)」「童子教(どうじきょう・道徳の教科書)」「古状揃」「三字経」「四書五経」、ひいては「文選(もんぜん)」なども教えたが、後藤点・道春点(いずれも漢文の読解法)などに従ってただ素読するだけで、読解はいっさいしなかった。女子も同様で、「百人一首」「女今川(教訓書)」「女大学」
「女庭訓往来」などを課したが、やはり素読のみであった。
 結局のところ、寺子屋は実用本位の科目を優先的に教えるところなのであった。
 
つまり寺子屋では11人教科書が違い、さらに進み具合も違いますから、11人が別々のことをやっているのです。寺子屋を描いた絵を見ると、みんな好き勝手な姿勢をしていますし、2人で話をしたりもしています。
呉智英さんは、詰め込みや型を押しつけることが教育だと言いますが、それは近代の教育なのです。近代の学校では、みんな椅子に座り、前を向いて、体を動かすことも私語をすることも許されません。6歳の子どもにこれを強要するのは残酷であるだけでなく、発達上も問題があると思います。生理学者や発達ナントカ学の学者はちゃんと告発してほしいものです。
 
呉智英さんは封建主義者を名乗るなら、学校を寺子屋式にして、11人の個性に合った教育、のびのびとした教育をしようと主張するべきではないでしょうか。
 
ちなみに藩校は義務教育であり、武芸という軍事教練もあったので、近代学校にかなり近いものだったと言えます。
 
孔子は多くの弟子を育てましたから、教育者だったとも言えます。しかし、弟子はみな志願して弟子になった者です。ですから、教えるのは簡単だったでしょうし、やる気のない者がいれば破門すればよかったわけです。
しかし、近代学校ではやる気のない子どもにもむりやり教えなければなりません(義務教育はもちろん高校も似たようなものです)。孔子とは大違いで、先生はたいへんです。心の病で休職する先生が多いというのも当然です。
寺子屋式にすれば、先生も救われます。寺子屋はもちろん義務ではなく、行きたい子どもだけが行くのです。人間は生まれながらに好奇心も学習意欲もありますから、それで問題のあるはずがありません。
 
呉智英さんには「封建主義的教育論」の本を書いていただきたいと思います。
 
 
ところで、呉智英さんはパソコンもインターネットもやっていないということで(少なくとも数年前のエッセイではそうだった)、この文章も目にふれることがないかもしれませんが、私はもちろん呉智英さんに読まれてもいいつもりで書いています。