子犬や子猫を飼った人ならわかるでしょうが、彼ら彼女らはとても遊び好きです。
子猫は、猫じゃらしのように細かく動くものが大好きです(おとなの猫も同じですが)。細かく動くものというのは、ネズミのような小動物に似ているからでしょう。子猫は猫じゃらしに飛びつくことで狩りの練習をしているわけです。複数の猫がいると、愛猫家が「夜の大運動会」といったりする、家中を走り回る遊びをします。走り回って、取っ組み合いをし、また走り回ります。これは知らないと喧嘩をしているように見えるのですが、よく見ると、追いかけたり追いかけられたりと、役割を交代しながらやっているので、遊びだとわかります。つまり、追っかけて、格闘して、組み伏せるという遊びも、狩りの練習になっているわけです。
ちなみに、私の生家の庭にはイタチがときどき姿を現して、あるときやはり追っかけっこの遊びをしているのを見ました。そのうちやめるかと思ったら、飽きずに延々と続けています。そのとき私は、「イタチごっこ」の語源はこれかと思いました。
 
犬の場合は、細かく動くものをつかまえるよりも、たとえば投げられたボールを追いかけるような、大きな動きの遊びが好きです。猫は森で狩りをしますが、犬の祖先であるオオカミは平原で狩りをします。走って追いかけることが狩りの練習になるわけです。
また、子犬はやたら物をよくかみます。油断していると、すぐ靴やスリッパなどをだめにされてしまいます。犬は猫ほど前足は器用ではなく、獲物はかみついて倒し、とどめをさすのもかむ力によってです。かむ力は生まれつきある程度備わっていますが、もちろん鍛えることもたいせつです。子犬にとって物をかむことは楽しい遊びなのですが、結果的にかむ力が鍛えられます。
 
つまり、犬や猫において、遊びの多くは狩りの練習であり、生存に直結した行為であるわけです。
 
人間においても、基本的には同じです。サルは森で採集生活をするものですが、人間だけは平原で集団で狩りをするサルです。昔から子どもの遊びでよくあるのは、鬼ごっこ、隠れんぼ、缶けりなどですが、これらの遊びには探索、追跡、捕獲という狩りの基本が入っています。
ビジネスの基本も探索、追跡、捕獲です。もうかるネタを探索して、発見すると追跡して、捕獲してもうけを手にします。つまりビジネスというのは狩りの発展形といってもいいでしょう。
 
しかし、人間の子どもは遊んでばかりいてはだめで、勉強をしなければなりません。勉強とはいったいなんでしょうか。
人間社会は複雑ですから、子どもも複雑なことを学ばなければなりません。それが勉強というわけでしょう。
しかし、それが生きるために必要なことであれば、あくまで遊びの延長上にあって、遊びと一体となっていていいはずです。
しかし今、遊びと勉強は相反するものになっています。
なぜ勉強は遊びから分離し、さらには遊びを抑圧するものになったのでしょうか。
 
私はこれを文明の病理ととらえ、その病理を「子ども差別」と呼んでいます。
 
それはともかく、子どもに勉強をさせたいと思うのであれば、勉強を正しく位置づけないといけません。
まず、勉強を遊びという土台の上に置くことです。学習ゲームなどですでに現実のものになっています。
また、その勉強が将来社会に出たときに役に立つのだと子どもを説得することです。しかし、今の学校でやっていることは、ほとんどが役に立たないことなので、この説得は不可能です。説得を可能にするには、教える内容を根本的に変えないといけません。