「機会の平等」か「結果の平等」かという問題があります。格差社会を論じるときにも避けて通れない問題です。しかし、この問題はいくら議論しても結論は出ません。なぜなら肝心のことがすっぽりと抜け落ちているからです。
それは、「生まれつきの不平等」ということです。
 
人間は生まれたときからそれぞれ違います。それが個性ですが、能力もまた個性です。頭のよさもそれぞれ違いますし、体力、運動能力も違います。
これは当たり前のことで、否定する人がいるとも思えないのですが、現実には、これは言ってはいけないことになっています。つまり現代のタブーです。
 
なぜこれがタブーになっているかというと、このことを言うと差別を助長するとされるからです。
たとえば、人間も動物ですから、生物学によって人間を研究することはあっていいはずです。しかし、人間を生物学的にとらえることで、過去に社会ダーウィン主義や優生学といった差別思想が生まれたことも事実です。また、エドワード・O・ウィルソンという生物学者が社会生物学と称して、人間を生物学の新しい理論でとらえることを提唱しましたが、この人がひどい差別主義者であったために、寄ってたかってボコボコにされるということもありました(社会生物学論争といいます)
こうして生物学による人間研究は限定的なものになり、人間は生まれによって決まるのか環境によって決まるのかということがいまだに論争の種になっています。
 
なぜ人間を生物学でとらえると差別主義につながるのでしょうか。差別主義というのは偏見によるものであって、正しい認識はむしろ差別主義を消滅させるはずです。
もし生物学が差別主義を助長するとすれば、それは生物学が間違っているからです。私はその間違いに気づきました。
ですから、私が人間を生物学でとらえたり、人間は生まれつき能力に違いがあるといったりしても、それによって差別主義を助長することはありません。
 
ともかく、人間は生まれつき能力に違いがあります。しかも、家庭環境によってもその能力の発達が違ってきます。たとえば、知的で文化的な会話が交わされている家庭で育つのと、アル中の父親が暴力をふるっている家庭で育つのとでは、ぜんぜん違います。
 
「機会の平等」は「スタートラインの平等」ともいわれますが、ほんとうにスタートラインの平等を実現しようと思えば、生まれと家庭環境の違いを踏まえないといけません。
しかし、今そんな議論はほとんど行われていません。
「結果の平等」についても、人間が生まれながらに違うとすれば、「結果の平等」を追求するのはおかしいことになります。
 
人間は生まれながらに能力の差があるということは、すべての社会科学の基礎になるべき重要な認識です。