1015日、格差社会に反対するデモが世界規模で行われました。
格差社会とはなんでしょうか。格差社会はどうして生まれたのでしょうか。それを考えてみたいと思います。
 
人間は生まれながらに能力差があります。頭のよい人と悪い人がいますし、体力のある人とない人がいます。もちろん頭も体も鍛えれば能力は向上しますが、生まれつきの差があることは動かせない事実です。
では、どれくらいの能力差があるのでしょうか。
障害を持って生まれた人もいます。これももちろん生まれつきの能力差ということになりますが、ここでは一応健常者について考えてみることにします。
 
100メートル走の場合、速い人が約10秒ということになります。高校生男子の平均は14秒ぐらい、遅い人でも17秒ぐらいのようです。約10秒の人は相当鍛えた人ですが、それでも遅い人の2倍まではいかないわけです。
持久走の場合は、鍛えた人と鍛えてない人では大きな差が出ますが、鍛えた人同士、あるいは鍛えてない人同士を比べると、やはり2倍まではいかないのではないでしょうか。
 
頭のよさについても同じようなものではないかと思われます。
もっとも、頭のよさというのはいろんな要素から成っています。言語能力、数学的能力、記憶力、頭の回転の速さなど、数えていけばいくらでもあるでしょう。知能検査で測れるのは、その知能検査で測れる頭のよさですが、頭のよさの目安としては知能検査に頼るしかないでしょう。
IQは、95%の人が70から130の間に収まるとされますから、やはり頭のよさが2倍以上になることはまずないのではないかと思われます。
 
要するに、人間の能力は生まれつき違いがありますが、それほど大きくは違わないということです。
たとえば畑を耕すとき、たくさん耕す人とあまり耕せない人がいることになりますが、2倍まで耕せることはまずないということです。
ということは、農耕社会においては、能力によって貧富の差が生じるとしても、2倍まで豊かになる人はまずいない……と言いたいところですが、そんなことはありません。
たとえば、飢饉になったとき、収穫の少ない人は飢え死にしそうになりますが、収穫の多い人はそうではありません。となると、収穫の少ない人は収穫の多い人に食べ物を譲ってもらわなければなりませんが、圧倒的に不利な立場なので、来年の収穫時に2倍にして返せとか、土地の一部をよこせとか言われても、受け入れるしかありません。そうしたことが繰り返されるうちに、地主と小作人に分かれることになり、貧富の差が拡大します。
もっとも、小作人が死ぬと地主も利益を失うため、地主は小作人を死なない程度の貧乏にとどめておきます。
 
さて、現在の資本主義社会ではどうでしょうか。
カジノ資本主義という言葉があるように、ここではマネーゲームが行われています。テーブルを囲んでゲームを行っていると、実力の差はわずかであっても、実力のある者の前にはチップが山と積まれ、実力のない者はすっからかんになって、借金の証文を書き、土地家屋の権利書を渡し、娘を売るというはめに陥ります。
この社会では、マーケットが世界規模で広がっているために、小作人に死なれると困る地主とは違って、富裕層は貧困層が何人死のうと平気です。
そのため貧富の差は、数千倍、数万倍になっていると思われます。
 
農耕社会以前の狩猟採集社会というのは、どういうものであったのかちょっと想像しにくいのですが、おそらくそこでは能力の差が貧富の差だったのではないでしょうか。
能力の差が貧富の差であるような社会が、人間性にかなった本来の社会ではないかと私は考えています。
 
ところで、マルクス主義は生産力が向上して豊かになるとともに貧富の差が生まれ、原始共産制から奴隷制へと移行したと説明しますが、なぜ貧富の差が生まれたのかは明瞭ではありません。私の説明のほうがよほど明瞭ではないでしょうか。
人間は生まれつき能力の差があるということは、人間と社会について考えるときの大前提です。
 
 
次のエントリーも参考にしてください。
「生まれつきの不平等」http://blogs.yahoo.co.jp/muratamotoi/6522093.html