「ゲーム理論による社会科学の統合」(ハーバート・ギンタス著)という本が今年7月に出版されました。内容はタイトルの通り、ゲーム理論によってさまざまな社会科学はひとつに統合されるべきだというもののようです。
「ようです」と言ったのは、書評を読んだだけで、中身はまだ読んでいないからですが、読まなくてもわかります。ゲーム理論によって社会科学を統合できる可能性はありますが、現状では不可能です。なぜなら道徳が正しく位置づけられていないからです。利己的な人間が「人に迷惑をかけてはいけない」「人のために尽くしなさい」という利他的な言葉を発する矛盾を解明しない限り、ゲーム理論は限定的にしか使えません。
 
私は、人間の行動を決定する三要素として愛情、権力、道徳(宗教、思想などを含む)があると考えています。愛情、権力は客観的に把握しにくく、科学の俎上にのせにくいものですが、それでも私たちはだいたいのことはわかっています。しかし、道徳のことはまったくわかっていません。
私たちが利益を求めて行動しているのはわかりきった話です。問題は愛情、権力、道徳が行動にどう影響しているかです。この点に関してゲーム理論は今のところまったく無力です。
 
例を挙げてみましょう。
「囚人のジレンマ」というゲームがあります。一時は盛んに研究されて、ゲーム理論の本には必ずといっていいほど載っていましたから、ご存じの方も多いでしょう。
 
2人組の泥棒が逮捕され、別々に取り調べを受けています。警察は、2人組は過去にもっと大きな犯罪をしたに違いないと考え、こう持ちかけます。
「今のままだと1年の刑だが、過去の犯行を自白すれば、相棒を3年の刑にして、お前を無罪にしてやる。ただし、2人とも自白すれば2年の刑だ」
 
自白するのが有利か、自白しないのが有利かという問題です。もちろん2人の泥棒はもっぱら利己的にふるまうという前提です。このゲームでは、利己的な人間が利他的な行動をする場合があり、それが多くの研究者の心をとらえたのでしょう。
しかし、私にとってはまったくつまらないゲームです。このゲームで扱っていないことこそたいせつだと思うからです。それが愛情、権力、道徳です。
この三要素抜きの研究など意味がないと思えるほどです。それを具体的に見てみましょう。
 
まず、この2人組の泥棒が恋人同士という場合があります。男同士であっても、友情で結ばれている場合があります。その場合、利己的にふるまうだけでなく、利他的にふるまう可能性があって、当然ゲームの結果が違ってきます。
また、2人の泥棒は対等の関係とは限りません。むしろ親分子分、兄貴分と弟分というように上下関係がある場合のほうが多いでしょう。出所してから顔を合わしたときのことを考えると、上下関係によっても当然泥棒のふるまいは変わってきます。
そして、泥棒という無法者の世界にも道徳があります。道徳という言葉が適切でなければ掟といってもいいでしょう。仲間を裏切れば、良心の呵責や罪悪感が生じます。それももちろん行動に影響します。
 
三要素のたいせつさを示すために、もうひとつ例を挙げてみます。
戦場で兵士は「突撃!」の命令を聞いたら、敵の銃弾が飛び交う中、塹壕を飛び出していきます。この行動はなにによって説明できるでしょうか。
 
まず権力があります。軍隊で上官の命令は絶対で、命令違反は重罰ですし、敵前逃亡は銃殺です。こういう権力関係の中にいるから兵士は塹壕を飛び出すのです。
そして、愛国心、祖国愛があります。また、戦争に負けて国が占領されると家族がつらい目にあうということも想像されます。国や家族への愛という理由で兵士は塹壕を飛び出すのです。
国民は国家のために身を捧げるべしという道徳もあります。臆病、卑怯、裏切りは非道徳的な行為です。また、革命などなんらかの大義のためという理由でも兵士は塹壕を飛び出します。
 
戦場での兵士の行動は、もっぱら権力、愛情、道徳によって説明するしかありません。ゲーム理論はどこまで有効でしょうか。
いや、もしかして権力や愛情はゲーム理論でも扱えるのかもしれません。しかし、利己的な人間が利他的な内容の言葉(道徳)を語ることは矛盾ですから、それは扱えないでしょう。
ですから、ゲーム理論で社会科学を統合することは不可能なのです。
 
もっとも、道徳が解明できれば話は別です。ゲーム理論の適用範囲は飛躍的に広がることになり、社会科学の統合も不可能ではないかもしれません。
 
このブログを読んでいれば、道徳とはなにかがおのずとわかってきます。