横断歩道で信号待ちをしていたときです。信号が青に変わり、70歳すぎと思われる老人がいち早く車道に踏み出し、そこへ、信号に気づかないのか、1台のバンが減速せずに走ってきました。老人はそれに気づかず歩いていきます。その瞬間、私の脳裏に老人がパンにはねられ、ぐしゃっと体がつぶれるか、血が飛び散るか、そんなイメージが浮かび、そのあと救急車を呼んだりすることも想像され、それを避けるために老人に声をかけようと思ったのですが、「右を見ろ!」と言うか「止まれ!」と言うか迷い、結局口から出たのは「危ない!」という言葉でした。
それはおそらく0.何秒かの間のことで、頭は超高速回転していたのです。
「危ない!」という言葉はもっとも適切だったでしょう。「止まれ!」と言われても人ごとだと思う可能性がありますが、「危ない!」と言われると、誰でもとりあえず反応するはずです。
老人は立ち止まり、パンはその前を赤信号を無視して通り過ぎていき、なにごとも起こりませんでした。
 
私が声をかけたことによって、老人は交通事故を免れました。私は人を助けたことになります。客観的に見ると、私の行為は利他行為です。
しかし、そのとき私の心の中は、むしろ利己的な思いだけでした。
まず、目の前で悲惨なことが起こるのを見たくないという思いがありました。それから、老人が事故にあうと、救急車を呼んだり、警察に説明したりということをしなければならず、そうとう時間をとられそうで、そうなるのはいやだなという思いもありました(ほかにも人がいたので、ほかの人がテキパキとやってくれれば私は立ち去ってもいいでしょうが、そうなるという保証はありません)
老人の気持ちとか、老人の人生とかを考えることはまったくありませんでした。そういう意味で私はまったく利己的な動機で行動したのです。
 
とはいえ、人が傷つく悲惨な場面を見たくないという思いは、人を助ける行動に直結します。利己的な動機と利他的な行動がほとんど一体となっているのです。人間はそのように生まれついているわけです。
たとえば、へんな話、セックスのとき自分が気持ちよくなるように動くと相手も気持ちよくなります。そのように生まれついているわけです。
 
ですから、利己的な動機と利他的な動機をきびしく分ける必要もないことになります。人が悲惨な目にあうと自分もいやな気持ちになりますし、人が楽しそうだと自分も楽しくなります。人間は群れて暮らす動物ですから、生まれつきそうなっているのです。
 
しかし、現代ではかなり事情が違ってきています。
たとえば、アフリカのどこかで難民が悲惨な目にあっているという報道に接すると、私たちはそんなことはなくなってほしいと思い、ときには難民支援の行動を起こします。
しかし、中には、難民が悲惨な目にあっている報道がなくなってほしいと思い、メディアに抗議する人がいます。最近はそういう人がふえているようです。そのため、テレビから悲惨な場面はどんどん少なくなり、戦闘の場面はあっても死んだ兵士の姿が映ることはまずありません。
 
鉢呂経産相の「死の町」発言をめぐる動きもそのたぐいです。「死の町」という現実をなくすのではなく、「死の町」という言葉をなくしたいと思う人が多くいました。
 
つまり、現代では利己的な動機が利他的な行動に直結しなくなっているのです。
その結果、悲惨な現実はそのままということになりかねません。
 
 
今では、その行動が利己的な動機に基づくものか利他的な動機に基づくものか、あるいはその行動が利己的な結果につながっているか利他的な結果につながっているか、いちいち検証しなくてはいけません。この検証なしに発言すると、世の中は混乱するばかりです。