私は学校教育や学校制度に反対する思想を持っているのですが、これはもちろん私だけのことではありません。反学校教育の思想家としては、まずミシェル・フーコーが挙げられるでしょう。
フーコーの主著「監獄の誕生」は、近代以前の刑罰はムチ打ち、烙印など肉体に対して与えられるものでしたが、近代以降は犯罪者を監獄に収容し、精神を矯正するものとなったとし、そして、最小限の費用で犯罪者を監視するために一望監視施設と呼ばれる刑務所ができ、軍隊、学校、工場、病院も同じ原理で運営されているとします。刑務所と学校が同じ原理だという点で、フーコーが学校を批判的に見ていることは明らかでしょう。
 
イヴァン・イリイチはややマイナーな思想家ですが、学校は過剰な効率性を追い求めるあまり人間の自立、自律を喪失させるものであるとして批判しましまた。以下はウィキペディアからの引用です。
学校教育においては、真に学びを取り戻すために、学校という制度の撤廃を提言。パウロ・フレイレの革命的教育学と並んで、地下運動から国際機関まで世界中を席捲した。イリイチの論は「脱学校論」として広く知られるようになり、当時以降のフリースクール運動の中で、指導的な理論のひとつになった」
 
学校や教育について真剣に考えると、フーコーやイリイチなど知らなくても、反学校の思想に傾いていくのは当然です。
とはいえ、日本で反学校、反教育を明確に主張している人は少ないようです。私が知っている中では、絵本作家の五味太郎さんがおられます。五味さんの「大人問題」(講談社文庫)を読んで、同じようなことを考えている人がいるんだなあと思いました。
図書館から五味さんの「勉強しなければだいじょうぶ」(朝日新聞出版)という本を借りてきたので、そこから学校教育への本質的な批判の部分を引用してみます。
 
 
非常に浅い子ども教育理論は、子どもというものをなぜか物的にとらえ、繰り返しやれば覚えるはずだとか、鉄は熱いうちに打てみたいな理論を平気で言います。子どもはしっかり躾けておかなきゃダメよとか、たくさん愛せばいい子になりますとか、いっぱい絵本を読むと情緒豊かな子になりますとか、そのぐらい物的で雑なことを単純に信じてしまう大人というのは、たぶん愛されなかったんだろうなとしか思いようがないわけです。もうすでにどこかが破壊されてしまっている、あるいはどこかが未発達のままのような。それが親になれば、愛するという形が自分でもよくわからないよね。ましてや、子どもに愛されていることさえわからない。
 
子どもを生物的にゆっくり見るという習慣がついていない社会なんだよ。社会の中でしかその子を見ていないのね、恐ろしいことに。それはたぶん、社会の中でしか、あるいは学校という中でしか個人個人を見ない教育を受けてきた人なんだと思う。家に帰ってきても「勉強したの」「宿題できたの」って学校基準でしか物を喋れない、そういう暮らしをしてきた親の歴史なんだと思う。そんなことはさておいて、もっと大事なことがあるだろう、ということについてはもうわからない人たち。
 
生まれつきの力をほとんど殺されて改めて再教育(している側には「再」という感覚はないだろうけれど)されて、めでたく誕生したのが勉強人、あるいは学校人。
 
その学校人は、学校的なものがすべてだから、そこの評価査定については敏感になるわけです。成績が良いのは良い。成績が悪いのは悪い。先生に怒られるのは悪い。ほめられたことは良いことだと考える。ただそれだけ。
 
今、学校に行っていないのは悪い子です。学校行かないと「きみ、どうしたの?」とみんなに言われます。補導されちゃうわけです。ま、犯罪者です。
 
学校というものをなんでこれほど重要視して、なんでいまだにあるのかというと、学校出てないと資格を与えないというシステムがあるからね。これが最後の砦。資格を取るには学校を出ているということをまず前提にしておいて、それがなければ次の試験は受けられませんよと。次はないですよと。就職もまともにはできませんよと。自衛隊にも入れませんよと。
 
 
学校教育を否定する人が少ないのは、学校教育を否定すると自分の過去を否定してしまうことになるからです。人間はやはり自分を肯定したいですから。
しかし、学校教育にかかわることは自分自身の表面的な部分です。それを否定することで自分自身の中心的な部分を肯定することができるわけです。そう考えると、学校教育を否定する気になれるのではないでしょうか。
 
学校をなくせといっているのではありません。学校は子どもが自主的、自発的に学ぶ場に変わるべきだといっているわけです。
今の学校は、お腹の空いていない子どもに、決められた食べ物をむりやり口の中に押し込んでいるようなものです。