私は若いころ気が弱くて自信がなく、人に対してものを強く主張することができない人間でした(今も基本的には同じですが)。
こういう人間はいっぱいいるはずです。こういう人間が自信あるふるまいをするためにはどうすればいいでしょうか。
 
ひとつの手段として、空手などを習うというやり方があります。これはけっこう効果があるはずです。いざ喧嘩となれば負けないという自信は、ほかの場面にも生きてきます。
それから、はったりをきかすというやり方をする人もいます。実力のあるふりをする、物知りのふりをする、有名人と知り合いのふりをするということです。本当の自信は実力と実績から出てくるわけですが、それには努力と時間が必要ですから、手っ取り早いやり方として、はったりをきかすわけです。
 
私がとったのは別の方法でした。
それは、自分の主張が客観的に正しいことなら自信を持って主張できるだろうから、「客観的な正しさ」を追求しようと思ったのです。
たとえば、会社の上司に対してなにか主張するとします。もちろん自分は正しいと思って主張しているのですが、それはあくまで主観ですし、自分でもそのことがわかっていますから、自信を持って主張できません。ですから、自分の主張が正しいという客観的な根拠を求めようと考えたわけです。
発想としてはごく単純です。しかし、これは実際にはひじょうにむずかしいことでした。
 
たとえば私は、急いで道を歩いているとき、道いっぱいに広がって歩いている集団に進路を妨害されると、その集団がサラリーマンでもおばさんでも高校生でも同じですが、道を横に広がって歩くとはけしからん、非常識なやつらだと腹が立ちます。しかし、次の日、今度は急いでいないと、同じように道いっぱいに広がって歩いている集団がいても、ぜんぜん腹は立ちません。それどころか、談笑しながら歩いている人たちを見て、ほほえましく思ったりします。
私の判断力とはこの程度のものです。
この場合は、一日で自分の判断が変わってしまうので、自分でもおかしいと気づきます。しかし、一貫して間違った判断をしている場合は、一生気づかないでしょう。
また、世の中全体が間違った判断をしている場合も、永久に気づかないに違いありません。
ということで、「客観的な正しさ」を追求するのはたいへんなことであるとわかります。
 
しかし、私は諦めませんでした。まあ、そういうことを考えるのが好きなのでしょう。私は大学入試のときも社会科は倫理社会を選択しています。
 
「客観的な正しさ」は、結局自分自身の判断力の問題になってくるわけです。私は自分の判断が正しいとする根拠を探し求めました。
 
このとき、世の偉い人たちは、社会が悪い、権力者が悪い、あいつらが悪い(自分は正しい)というふうに考え、悪いものをなくそうとしていました。私はまったく逆のベクトルで進んでいったのです。
 
このやり方は、デカルトが「方法序説」でやったことと似ています。デカルトは、すべてのものの存在を疑い、そして、疑っている自分の存在は確かであるとして、そこを根拠に自分の哲学を組み立てました。
しかし、このやり方では、自分の存在は確かであるとわかるかもしれませんが、自分の判断が正しいとはわかりません。デカルトはそこをごちゃまぜにして、ごまかしています(キリスト教文化では理性や知性があることは神に近いことなので、知性や理性を疑う発想はないのです)。
 
私のやり方は、自分の判断力を問うもので、デカルトを超えているといえます。
もっとも、こんなことをいっても信用しない人が多いでしょうね。
デカルトとか西洋哲学とかの権威に目をくらまされているからです。
 
私は自分の判断力の根拠についてとことん考え、ついに「科学的倫理学」に到達しました。そのおかげで、私は気が弱いにもかかわらず、自信を持って偉そうなことが言えるようになったのです。
「科学的倫理学」は気が弱い人にはとくにお勧めです。