大王製紙の前会長が総額106億円を連結子会社から借入れ、カジノのギャンプルに使っていたということが話題になっています。ギャンブルの魔力とは恐ろしいものです。
常識的には、カジノというのは遊ぶところで、勝ち続けることはできないと思うのですが、中にはカジノの稼ぎで生活するプロのギャンブラーもいます。たとえば作家の森巣博さんがそうです。
森巣さんは最近こそ作家業で稼いでいるかもしれませんが、ずっとプロのギャンブラーとして生活してきた人です。麻雀やポーカーのように技術的要素の強いゲームなら、その稼ぎで生活することが可能なことはわかりますが、森巣さんが主にやるのはバカラやパイガオといわれるもので、運の要素の強いもののようです。どうしてそれで生活することができるのでしょうか。
もっとも、森巣さんにいわせると、プロのギャンブラーというのは一時は羽振りがよくても、最終的には負けて、死屍累々だということですが。
 
100%運で決まるゲームなら、カジノにテラ銭を取られるので、長くやればやるほど負けていく理屈です。
しかし、必ずしもそうはならないと思います。というのは、「いつゲームをやめるか」というファクターがあるからです。
 
100%運で決まるゲームでも、続けて勝ったり、続けて負けたりということがあり、波があります。さらに、人間の心理として、続けて勝って調子に乗ると賭け金を多くし、続けて負けると一発逆転をねらって賭け金を多くする傾向があるので、その波はさらに大きくなります。
で、普通の人は、勝っている間は気分がいいし、もっと勝ちたいので、ゲームを続けます。そして、負けると元手がなくなってやめざるをえなくなるか、元手があっても心理的に痛手をこうむってやめます。
つまり普通の人は、勝っているときにやめることは少なく、負けているときにやめることが多いので、必然的に負けが多くなるのです。
では、その負け分はどこに行くのかというと、普通でない人のところに行きます。
普通でない人というのは、ギャンブラー体質の人です。
ギャンブラー体質の人は、負けてもやめません。勝つまでやるのです。ですから、必然的に勝ちが多くなります。
 
私がこんなことを考えるようになったのは、昔の友人A君がいたからです。
A君とはよく麻雀をしましたが、とにかくギャンブルが好きな人で、麻雀のメンバーが崩れたあとも、私にチンチロリンを挑んできました。
チンチロリンというのは、阿佐田哲也さんの小説「麻雀放浪記」にも出てくるのですが、サイコロ3個を丼に放り込んでする単純なギャンプルです。サイコロの目で勝負が決まるので、100%運で決まるゲームだといえます(もっとも、「流れ」を読んで賭け金を増減させるところに“腕”があるとされるのですが)。
A君が勝つまでやる人でした。負けが込んでくるとますます熱くなります。私はもともとそれほど乗り気ではなく、早くやめたいと思うのですが、いつまでもやめさせてくれません。そうして適当な気分でやっていると、そのうちA君に流れがきて、A君が勝ってきます。そこでようやくやめることになります。
一方、私は負けた状態が続くと、嫌気が差して、自分からやめたりします。
というわけで、たいていA君が勝った状態で終わるのです。
 
作家の畑正憲さんは麻雀が強いので有名です。もちろん腕もあるのですが、ものすごい体力があって何日でも徹夜できるそうです。畑さんも勝つまでやるタイプの人です。
 
森巣さんも実に精神的にタフな人であることは、森巣さんの小説やエッセイを読むとよくわかります。森巣さんは今どき珍しい左翼的な人で、右派や保守派に対して挑発的な文章をよく書いていますが、おそらく反論されることはあまりないのではないでしょうか。誰もがこの人とは論争したくないと思うタイプです。ギャンブルの卓でも相手は逃げ腰になってしまうのではないでしょうか。
 
おそらく森巣さんもギャンプル体質で、自分が勝ったときはスパッとやめ、負けたときはとことんねばるのでしょう。
もっとも、このやり方だと、とことん負けて死屍累々の1人になってしまう場合もあります。森巣さんはその前にやめる判断力もあるのでしょう。それによって長くプロのギャンブラーを続けてこられたのではないかと思います。
 
もっとも、「いつゲームをやめるか」というファクターで勝ち組と負け組が分かれるという私の説が論理的、数学的に成り立つかどうかについては、あまり自信がありません。