高校時代、倫理社会の先生が人真似や受け売りでない自分独自の思想を持つことの大切さを説き、君たちの先輩にはこんな独自の思想を語った者がいたと教えてくれました。その思想というのは、
「これからの人類にとって最大の課題は退屈をいかに克服するかだ」
というものです。
 
これを聞いたときは、意表をつかれました。それに、これはひじょうにスケールの大きな思想です。
「退屈の哲学」とでもいえるかもしれません。
 
当時は高度成長時代で、全共闘運動など“若者の反乱”といわれるものが起こる寸前の穏やかな時代でした。ですから、このまま経済成長が続いていけば、いつか人類にとって退屈が最大の問題になる時代がくるかもしれないというのは、多少リアリティがありました。
 
しかし、私がすぐに思ったのは、これは本当に高校の先輩が独自に考えたものだろうかということでした。どこかの哲学者が言ったことをパクッただけではないかとも思われます。
また、たとえば日活の青春映画などで、金持ちのいかにも生意気な若者が言いそうなことでもあり、その映画のセリフをパクッたとも考えられます。あるいは、フランス映画のしゃれた会話にもありそうです。
しかし、倫理社会の先生はオリジナルのものだと信じていました。
「退屈の哲学」は果たして高校の先輩のオリジナルか、それともなにかのパクリか、パクリとすればなにのパクリかというのが、それからずっと気になっていたことです。
 
そのことを思い出して、今はインターネット検索という便利なものがあるので、「退屈の哲学」で検索してみました。
そうすると、「退屈の哲学」といえるようなものはないようです。ただ、退屈を哲学的に考察するというのはあります。しかし、これは趣旨がぜんぜん違います。「退屈の哲学」は退屈を人類の最大の課題だとするものだからです。
 
ショーペンハウエルあたりが言いそうなことのような気がして、ショーペンハウエルの名言集というサイトを見てみたら、関係ありそうなのはこんな言葉だけでした。
「人間の幸福の敵は、苦痛と退屈である」
これも「退屈の哲学」とは違います(というか、そもそもこれが名言なのでしょうか。普通の言葉としか思えませんが)
 
結局のところ、「退屈の哲学」を唱えた哲学者はいないようですが、映画のセリフのパクリであるという可能性はまだ否定できません。
 
それにしても、当時とは時代が変わりました。今は格差や貧困が問題となり、年金崩壊がいわれています。退屈の克服が最大の課題になる未来がくるなどと言っても、誰もリアリティを感じないでしょう。