文部科学省が「復興教育」に取り組む方針だそうです。
「復興教育」ってなんだと思いますが、記事を読んでもよくわかりません。だいたい今の子どもがおとなになるころには復興も終わっているはずですし。
『非常時にも自ら判断し行動できる「生き抜く力」を育むこと』というくだりがあります。やはりこれがだいじなことでしょう。とすると、「防災教育」あるいは「災害対応教育」に主眼があるのだと解釈しておきます。
 
『一人ひとりが迷わず高台に逃げる「津波てんでんこ」の教えをもとに防災教育に取り組んでいた学校は、助かった子が多かった』という指摘があります。
これはだいじな指摘です。逆にいうと、「津波てんでんこ」の教えをもとに防災教育に取り組んでいなかった学校では、助からなかった子が多かったわけです。
つまり文部科学省の防災教育の不備が津波の犠牲を大きくしたということになります。
今回の大震災では、原発事故を起こした経産省、東電の責任が大きく問われましたが、防災教育をおろそかにしていた文部科学省の責任も当然問われるべきです。
 
もっとも、ほとんどの人にとって、「津波てんでんこ」ということを知ったのは震災後のことでしょう。これは民間伝承で、ほとんど忘れられていたからです。
自分の命を救うためのノウハウがほとんど忘れられてしまうということは、今の世の中のあり方に根本的な間違いがあることを示唆しています。
 
「津波てんでんこ」ということは、とりあえず自分が助かりなさい、そうしたほうが結果的に多くの人が助かる、ということでしょう。切迫した状況で人を助けようとしてはいけないということでもあります。
いわば利己的行動の勧めです。
 
今の世の中、利己的行動を勧める人はほとんどいません。逆に利他的行動や自己犠牲を勧める人はいっぱいいます。
それはみんなが利己的だからです。みんなは他人が利他的行動や自己犠牲をしてくれれば自分の利益になると考えているので、他人に利他的行動や自己犠牲を勧めるのです。
文部科学省が進めてきた道徳教育も同じです。ですから、「津波てんでんこ」の教えが道徳教育に取り入れられることもなかったのです。
 
しかし、これからの文部科学省は防災教育に力を入れるそうなので、「津波てんでんこ」も取り入れることでしょう。そうでなければ困ります。
 
ところで、話は変わるようですが、津波がくるとき、宮城県南三陸町の防災放送担当の24歳の女性が最後まで庁舎に残って住民に避難を呼び掛け、自身が犠牲になるという出来事がありました。この女性は秋に結婚式を控えていたそうで、よけい人々の涙を誘いました。
 
従来の道徳の副読本では、この手の話が好まれました。しかし、この話は防災教育には役立ちません。防災放送担当という特殊な立場の人の話だからです。一般の人はなにも考えずに逃げなければいけません。
 
文部科学省は防災教育において、こうした自己犠牲の話を取り入れたい欲望にかられるでしょう。しかし、それをすると災害時に犠牲をふやすことになります。
文部科学省は、これまでの道徳教育の間違いを認め、利己的行動を勧める方向に転換しなければなりません。