オウム真理教事件の刑事裁判がすべて終結しました。あの事件から16年たったわけです。事件の年は阪神大震災の年でもあり、個人的には母親が亡くなった年でもありました。母の葬儀で会った旧友たちとオウム事件の話をして盛り上がったのを覚えています。これほど人々の関心を呼んだ犯罪はなかったでしょう。当時、週刊誌は記録的に売上を伸ばしたそうです。
当時は、なぜ高学歴者がオウムにはまってあんな犯罪をしたのかということがよく論じられましたが、最近はただ一方的に被告が断罪されるだけのようです。被害者側に焦点を当てた報道が多いので、自然とそうなります。
しかし、私はオウム事件の犯罪者たちをそれほど一方的に批判する気にはなりません。いや、批判はするのですが、同じようなことはほかにもあって、そっちは批判されていないではないかという気持ちがあるのです。
 
オウム真理教は省庁制という組織になっていて、大蔵省、外務省、文部省、科学技術省などがあり、各省に大臣がいて、松本智津夫は神聖法皇と呼ばれていました。つまり、国家と同じ体制なのです。
もしこれが本当の国家なら、オウムの犯罪者たちの暗殺や地下鉄サリン事件などの行為は、英雄的、愛国的行為ということになるわけです。国家においては暗殺もスパイ行為も戦争もなんでもありですから。
もちろんオウム真理教がつくったのはニセ国家です。しかし、それを本物と思ってしまったのが松本智津夫の弟子たちです。開運の壷だと信じて高価な壷を買わされ、それを拝んでいる人に似ています。もちろん開運の壷を買った人は、詐欺商法の被害者です。ですから、松本智津夫の弟子たちも詐欺の被害者なのです。
詐欺の被害者を責めるのはもちろん間違っています。
いったんニセ国家詐欺にひっかかってしまうと、松本智津夫に命じられて人を殺すのはよいことになってしまいます。現在の自衛隊員が有事に際して人を殺すのと同じことだからです。
 
詐欺にひっかかるのがよくないという論法もあるかもしれませんが、そんなことをいうと振り込め詐欺の被害者も批判しなければいけないことになります。
 
いや、もちろん私はオウムの犯罪者たちを批判します。その点は明快です。むしろほかの人たちはほんとうに批判しているのかという問題があります。
多くの人たちは、オウムの犯罪者たちが人を殺したことは批判しますが、有事に自衛隊員が人を殺すことは称賛し、死刑で人を殺すことも容認します。
同じ殺人行為を、こっちはよい、こっちは悪いと分類しているわけです。この分類をするためにはめんどくさい理屈をこねなければなりません。
松本智津夫みたいな人間にひっかかると、この分類を間違って、自分も犯罪者になってしまうかもしれません。「オウムの犯罪者なんか死刑になって当然だ」と主張している人は、「あいつは悪いやつだからポアしろ」と命じられたとき、さして抵抗なくできるでしょう。
 
私の頭の中では、オウムの犯罪者が人を殺したことも、自衛隊員が有事に人を殺すことも、死刑で人を殺すことも、みな同じ殺人行為です。単純明快です。なんの理屈もいりません。
 
もちろん、正当防衛の殺人は許されますから、自衛隊員が人を殺すのはよい場合もあります。しかし、死刑で人を殺すのは正当防衛のはずはありませんから、つねに悪いことです。
 
もっとも、自衛隊がPKOで武器を携えて外国に行って人を殺した場合はややこしくなります。そのPKOでどれだけ人を救えたか、救える可能性があったかということと天秤にかけなければいけませんし、現地の人から見れば武器を持って外国軍が来たということですから、向こうに正当防衛権が生じている可能性もあります。
 
ともかく、オウム真理教事件はニセ国家を通して国家の恐ろしさというものを教えてくれた事件です。