中学時代、「四ちゃん」というあだ名の国語の女性教師がいました。あだ名の由来は、八頭身美人という言葉がありますが、その女性教師は背が低く、頭が大きいので、四頭身だということでした。
年齢は40歳ぐらいだったでしょうか。独身でしたから、当時の言葉でいえばオールドミスです。ハイミスという言葉ができたのはそのあとです(今はそんなことをいうこと自体が失礼ですが)
四ちゃんは背も低いのですが、気も小さくて、生徒に対する威圧感がまったくありませんでした。そして、泣き虫でもありました。ですから、生徒たちはなにかきっかけを見つけては騒いで授業を妨害し、そのうち四ちゃんが泣き出すのを楽しみにするようになりました。どこそこのクラスが四ちゃんを泣かしたという情報はすぐに学年中に広がり、今度は自分のクラスで泣かそうと競い合うような感じでした。
 
当時の四ちゃんの心境を思うと、今でもつらくなります。毎日生徒にバカにされて、教師をやめたかったでしょうが、当時女性がほかに職を見つけるのは容易なことではなく、やめるにやめられなかったのでしょう。
 
四ちゃんをイジメるのはよくないという生徒もいましたが、多くは喜んでイジメていました。私もそんなに悪いことをしているという感覚はなかったように思います。
 
中学生というのは残酷なものだということになるかもしれませんが、残酷になるにはそれなりの理由があると思います。
四ちゃん以外のほとんどの教師は、生徒に対して威圧的で、体罰も日常的でした(体罰ではなく教師暴力というべきですが)。つまり生徒は教師につねに圧迫されており、いわば包囲網の中にいるようなものですが、唯一四ちゃんが包囲網の弱点であったわけです。圧迫された分、その弱点に反発力が集中することになります。
つまり、イジメる側にもそれなりの理由があるわけです。
いや、イジメだけではなく、すべてのことには理由があります。
ですから、ほかの教師が生徒を威圧するのも理由があります。それが教師の役割だと信じているのでしょうし、教師にそう信じさせるのが学校制度というものであり、そして学校制度もそれなりの理由があって生まれてきたわけです。
 
大げさにいうと、ビッグバン以来、すべての物事は原因と結果の連鎖の中で変化し、生成してきたわけで、人間の行動もその連鎖の中にあります。
いうまでもなく、原因なくして結果はありません。
 
ところが、イジメについて考えるとき、人はまずイジメる人間は悪いと考えます。それに対して、イジメられる人間も悪いところがあるという考えもあります。このふたつのどちらが正しいかでもう結論が出ませんし、自分なりに結論を出す人も、そこで思考停止してしまって、たとえばイジメる人間が悪いとして、その人間はなぜ悪くなったのかということを考えません。
 
これが道徳的思考というものです。善か悪かという問題に直面すると、そこで思考停止してしまうのです。
イジメる人間が悪と決まると、その周りの人間は自動的に免罪されます。
たとえば裁判で被告に有罪の判決が下ると、その被告の周りの人間への責任追及も終わるので、みんな安心できます。これが刑事裁判の最大の効用です。
 
善や悪といった道徳を頭から追い出して現実を見ると、人間は原因と結果の連鎖の中で生きていることがわかります。この連鎖は広範にわたっており、いわゆる複雑系となっています。この複雑系を研究することが人間を科学的に研究するということであり、これからの人文科学・社会科学のあるべき姿です。