NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」で乃木将軍のことを見ていて、文芸評論家の江藤淳のことを思い出しました。江藤淳も殉死ではありませんが後追い自殺をし、NHKのドキュメンタリードラマ「明治の群像 海に火輪を」(10)の原作者でもありました。この「明治の群像」は維新直後から日露講和までを描いたもので、江藤における「坂の上の雲」ともいえる作品です。
 
私は江藤淳の思想についてはまったく興味がなかったのですが、自殺したときの世の中の反応にひじょうな違和感を覚え、それでいろいろなことを考えさせられました。
 
江藤淳は1999721日、享年66歳で自殺しました。その前年に妻をガンで亡くし、自身も脳梗塞になり、その後遺症に苦しんでいた中での自殺です。その遺書は名文と讃えられたので引用しておきます。
「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」
 
私は自殺そのものについては、「まあ、そういうこともあるだろう」程度の感慨しかありませんでしたが(なにしろ一冊も著作を読んだことがないので)、世の中の反応に驚きました。その死を絶賛する人がたくさんいたのです。
たとえばこんな具合です。
 
「自殺サイトなぜ死んではいけないのですか?」より
・奥さんの後を追って死んだんだね。とっても美しい・
 ・美しい限りで、それは、我々が失ったものの大きさをまったく違う次元で十分に贖ってくれるはずではないか。彼から、『諸君よ、これを諒とせられよ』と請われて、彼を愛した者たちとして、何を拒むことが出来るだろうか(石原慎太郎)
 
・奥さまへのいたわりや、やさしさも生涯、深く貫かれ、本当に後を追うように逝かれたのですね(瀬戸内寂聴)
 
・彼の強さが、単なる自殺ではなく、矜持を保ったままの"自決"を選ばせたが、その本質は、限りない優しさによる、"妻への殉死"だと思う。(浅利慶太)
 
 
とりわけ浅利慶太氏のように、「これは自殺ではなく自決だ」という声が多く聞かれました。
 
これに対して、有名人やマスコミが自殺を美化すると自殺を誘発するとの反対の声が上がりました。また、病気になって苦しい中でも生きようとしている人はいけないのかとか、とりわけ脳梗塞になった人は「形骸」にすぎないのかという声も上がりました。
当然でしょう。自殺を美化するのは間違っています。
 
とはいえ、私は自殺を批判しようとも思いません。
 
江藤淳の場合、前年に奥さんを亡くしたということが精神的に大きかったようです。江藤淳は奥さんを看取った過程を「妻と私」という文章にして「文藝春秋」に発表します。単行本版「妻と私」の「あとがき」にこう書かれています。
「『妻と私』は『文藝春秋』平成十一年五月号に掲載された。私がこれまでに書いて来た文章のなかで、これほど短期間にこれほど大きな反響を生んだものは、ほかに一つもない。友人知己のみならず、多くの未知の読者から次々と読後感が寄せられたからである」
 
「妻と私」を読むと、奥さんの存在がいかに江藤淳にとって大きかったかがわかります。ですから、夫婦愛の物語として大きな反響を呼んだわけです。ただ、私の印象としては、かなり江藤淳が奥さんに依存的であったような気がします。
ですから、奥さんが亡くなったことの精神的なショックはきわめて大きかったでしょう。そこに自身が脳梗塞という病に襲われました。このふたつの出来事で江藤淳は死を選んだものと思われます。
最愛の奥さんを亡くし、自身も病気で不自由な身になる。それゆえに自殺したということを私は少しも批判する気にはなりません。
 
ただ、問題は江藤淳が思想家であったということです。その思想と自殺の関係はどうなのかということが問われます。
江藤淳が日ごろから家族のたいせつさを訴え、健康のたいせつさを訴える思想家だったら、それをなくして自殺したのはある意味当然です。しかし、江藤淳はそうではありませんでした。
江藤淳の業績は多方面にわたり、その思想をひと言でいうのはむずかしいのですが、少なくとも保守主義者であって、日本という国家にこだわり続けたことは間違いありません(戦後の日本よりも明治の日本に本来の国家の姿を見ていたようです)
そういう思想家が、妻を亡くし、体を害したからといって自殺するのでは、その思想はなんだったのかということになります。
ほんとうに日本という国家のことを思うのであれば、妻を亡くし、体が不自由になっても、文章が書ける限り国家のために書き続けるはずです(彼の脳梗塞はそれほど重いものではなかったようで、少なくとも名文とされる遺書を書くだけの文章力はあったわけです)
 
ですから、江藤淳の自殺は、江藤淳の思想の敗北でもあったのです。
江藤淳の信奉者が江藤淳の自殺を美化しようとしたのは、それをごまかしたかったからではないでしょうか。