また成人式の時期となりました。成人式というと、マサイ族の男子は1人でライオンを仕留めないと成人になれないという話を思い出します。私はテレビでもこれを見たことがあります。
こんなサイトにも載っています。
 
マサイ族の若者はだいたい14,5歳になると1人でサバンナに出かけます。そしてライオンを仕留めると立派な成人と認められ、大事な部落の会議へも参加を許されます。尻込みしてライオン狩りへと出かけられない若者は、いつまで経っても成人と認められず、会議への参加はおろか結婚もできないといいます。
 
 
しかし、どこかあやしい感じがします。1人でライオンを仕留めるというのはハードルが高すぎる気がするのです。
そこでもう少し調べてみると、間違いだと主張するサイトがありました。
  
マサイ族の成人の儀式は「割礼」です。
男性だけでなく女性も行います。
ライオン狩りは行いません。
ライオンに立ち向かう勇気は必要とされますが、積極的に倒しには行きませんし、今は動物保護区になっているので、禁止されています。
 
 
調べてみましたがライオン狩りが現在は行われていないというのはどうやら本当のようです。
以下のような明確な記述がありました。
 
『ケニヤに26年滞在し、アフリカで最も多くの野生動物を殺した1人にあげられる J.A. ハンターはマサイ族のライオン狩りは既に1920年代には見られなくなったと書いている。
 グッギィスベルクは50年代にもまだ行われていたという。
バートラム(1978)は現在ではこの種のライオン狩りは禁じられているので、めったに行われないと言っている。
小原秀雄氏(1990)は最近やめになったとしている。
ライオンを狩ることは英雄になるための通過儀礼だったが、ライオンが少なくなったため、この儀式にこだわっていては戦士がもう生まれないからだという。
マサイ族のライオン狩 olamayio はもはや行われていないことになっている。ケニヤ、タンザニア両政府によって禁じられているからだ(bluegecko.org)。
 しかしマサイ族が家畜を殺された時には、禁令に反していまだにライオン狩りを行っているともいわれる(forests.org)。』
 
 
ちなみにウィキペディアの「マサイ族」の項目には、成人の儀式として割礼のことは書かれていますが、ライオン狩りのことは書かれていません。
もっとも、テレビでやっていたぐらいですから、多少それに似たことはあったのでしょう。
 
 
マサイ男子は1213歳ころになると割礼を受け、その後戦士の時代に入る。戦士だけの集落を作り、長老から立派な大人になるための修行を受ける。野生の中で家畜や家族を守るための知恵を学び、体を鍛える。そんな修行も十分だと長老たちが判断した頃、戦士の卒業式「エウノト」が行われ、彼らは大人になる。
 
 
おそらくこうした修行の中にライオン狩りもあったということでしょう。成人になる男子全員がライオン狩りで一匹ずつ仕留めていたら、その地域のライオンはいなくなってしまうはずです(ウィキペディアによるとマサイ族の人口は推定20万から30万人)
 
マサイ族はアフリカでもっとも勇猛な部族とされています。そういう部族の一部で行われていたらしいことを全体で行われていたことにして、それが未開社会における成人儀式の代表例のようにいうのは、大きな間違いです。
 
また、南太平洋のバヌアツ共和国では、足首に木のツルを巻いて高いやぐらから飛び降りるという、バンジージャンプの原型とされる成人の儀式がありますが、これなども世界でもっとも特殊な成人の儀式でしょう。これを成人の儀式の代表例のようにいうのも誤解を招くことです。
 
なぜ私たち文明人は、こうした特殊な成人の儀式を好んで取り上げるのかというと、未開社会も私たち文明社会と基本的に同じだと思いたいからでしょう。
 
実際のところは、文明社会と未開社会は大きく違いますし、中でもいちばん違うのは成人のあり方です。
未開社会では成人になるのにあまり苦労はありません。狩猟採集社会では、木の実などを取ってこられて、(ライオンでなく)シカなどを狩れるようになれば1人前ですし、農耕社会では、ある程度畑が耕せるようになれば1人前です(種まきの時期など技術的なことは経験ある人の真似をしていればいいのです)。しかし、今の文明社会で1人前になるのはたいへんです。長い期間教育を受け、人間関係のスキルも学び、規則正しい生活ができるようになり、それでちゃんとした職業につくか、つくことが可能な状態になって初めて1人前とされます。
文明が高度化するに従って成人になることの困難は増していきます。
もちろんこれは儀式の問題ではありません。儀式とは入学式に出席するようなことで、問題は入学試験に受かることであるわけです。
 
現在の日本では、若者は社会に適応するのにアップアップして、ちょっとしたつまずきで不登校や引きこもりやニートになってしまいます。
また、親も子どもを1人前にすることにたいへんな負担を感じていて、それも少子化の一因になっていると思われます。
 
文明はどこまでも進歩するものではありません。資源や環境の制約があるからです。
それにプラスして、人間の能力も制約になります。
未開社会の赤ん坊も文明社会の赤ん坊も、生まれたときの能力は同じです。ですから、文明が進歩するに従って1人前になるまでに時間がかかります。
人間はスペックの決まったコンピュータのようなものです。たくさんのソフトをハードディスクにインストールし、やっと仕事に使おうと思ったら、作業が複雑でメモリーが足りず、もうコンピュータの寿命が迫っているというのが今の文明人です。
 
「人間の能力は無限だ」みたいな考え方は幻想でしかありません。
能力の限界は教育で対応しようというのが文明社会の基本戦略ですが、それも限界に近づいています。
つまり、これ以上教育できない状態になっているのです。
そのため教育改革は「ゆとり」と「学力」の間を行ったり来たりしています。
 
これからは教育を改革するのではなく、少ない教育でも適応できるような社会にすることを目指すべきです。
 
人間は生まれつき能力が決まっているということを認識すれば、文明の進む方向もおのずと決まってきます。
人間観と文明観を転換する時期です。