私が初めて就職したとき、困ったのは職場にいやな人間がいることでした。
いやな人間といっても、なにも特別な人間ではありません。私と相性が悪いというだけのことです。
学校なら、いやな人間とはつきあわなくてもかまいませんが、職場ではそうはいきません。もちろん、表面的なつきあいをしておけばいいわけですが、ただ身近にいやな人間がいるだけで不愉快な気分になってしまいます。
このへんはよくいえば繊細、悪くいえば小さなことにくよくよする性格です。
 
あんなやついなくなればいいのにと思いますが、いくら思ってもいなくなるわけではありません。そこで、心の中でその人間をバカなやつだ、自分勝手なやつだ、がさつなやつだ、調子のいいやつだなどと徹底的に否定しますが、そう思うこと自体が不愉快ですし、毎日そういう感情にとらわれているのはわれながら情けないことです。
そこで考えたのは、このいやな人間を徹底的に理解して、自分の中に取り込んで同化してしまえば、不快な感情はなくなるのではないかということでした。
 
そのとき思い出したのが、子どものころ目刺しをよく食べさせられたことです。
今の若い人は、目刺しを食べたことがないという人も多いかもしれませんが、要するにイワシの干物で、昔は安い庶民的な食品としてよく朝食などで食べられていました。もともとあまりおいしくない上に、頭の部分はほとんどが骨なので、とくにおいしくありません。ですから、私が頭の部分を残していると、父親は頭にカルシウムが多いのだから頭も食べろと言います。
私はしかたなく頭も食べましたが、どうせ食べるならと、頭から食べるようにしていました。そのことを思い出したのです。
 
いやな人間というのは、目刺しと同じように自分にとって栄養のあるもので、どうせ食べるなら頭から食べてやろうと思ったのです。
具体的には、いやな人間のいちばんいやな部分をよく観察しました。そうして観察していると、いやな人間がいやな人間であるのはそれなりの理由があるということがわかってきます。そうすると、それほどいやな気がしなくなるのです(もともと自分の感情がへんだったともいえます)
 
そうしたやり方を続けていると、いやな人間と思うことが少なくなり、会社にいることがそんなにいやでなくなり、けっこう気楽にサラリーマン生活が送れるようになっていきました。
 
いやなものはむしろ自分にとって栄養のあるものだから、頭から食べてしまって自分の中に取り込むというやり方は、いろんなことに応用ができます。
たとえば、私は政治的にはずっと左翼でしたが、左翼的な本ばかり読んでいると学ぶことはなくなってきます。そういうときは、右翼的な本を読んだほうが1冊当たりの学習量が多くて、おもしろいわけです。ということで、一時は右翼的な本ばかり読んでいました。といっても、山本七平、塩野七生、渡辺昇一、日下公人などですが。
ただ、右翼的な本ばかり読んでもまた学習することがなくなってきます。右翼的な本というのは、国家とか日本が出てくると、そこで終わってしまいます。世界とか人類に広がっていく発想がないので、やはりつまらなくなってくるのです。
 
右翼の人が右翼の本を読むのは、最初のうちはいいですが、ある程度読めば、今度は左翼の本を読むべきです。そのほうが多く学べるのは明らかです。
左翼は右翼の本を読むべきだし、右翼は左翼の本を読むべきだとアドバイスをする人は世の中にほとんどいないでしょうが、このアドバイスが正しいのは間違いありません。
 
世のほとんどの人は、いやなものを抹殺しようとしたり、遠ざけたり、罵倒したり、無視したりしていますが、そういうやり方はたいていうまくいきませんし、そのやり方を通じて自分が成長するということもありません。
しかし、いやなものを自分の中に取り込んで同化するというやり方は、自分を成長させます。知識が広がりますし、人間としての器も大きくなるはずです。
 
排除の発想で生きるのと、同化の発想で生きるのとでは、長い間に大きな違いが出てきます。
 
いやなものは自分にとっていちばん栄養があるものだと思って、頭から食べてしまうのがお勧めです。