ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結したとき、新聞のインタビュー記事に右翼団体代表が登場し、今後右翼は目標を失うのではないかと質問されて、いや、今後は「道徳国家の建設」が目標になると答えていました。
どうして右翼が「道徳国家の建設」と言ったのか不思議に思いましたが、満州国の建国の理念が「五族協和の王道楽土」だったので、それを踏まえたのか、あるいは教育勅語の復活みたいなことを考えていたのでしょうか。
 
私は「道徳国家の建設」などありえないことだと思いましたが、今になってみると、この右翼の発言はなかなか鋭いところをついていたかもしれません。
つまり、冷戦が終結して、右翼と左翼という対立図式が無意味になったとき(まだそう思っていない人がたくさんいますが)、道徳についてどう考えるかということが新しい対立図式として浮上してきたと思えるからです。
 
「道徳国家の建設」が目標だということは、道徳によってよい国をつくることができ、道徳教育でよい人間をつくることができると思っているのでしょう。こう思う人はもちろんいます。というか、この考え方は世の中のタテマエとして存在しています。
その一方で、道徳ではよい国をつくることはできないし、道徳教育でよい人間をつくることはできないと思う人もいます。こちらのほうが多数かもしれませんが、これはタテマエに反するホンネなので、声高に主張されることはありません。
このタテマエとホンネの対立が表面化してきた――と言いたいところですが、まだそこまでにはなっていません。ただ、タテマエの暴走が始まったのは確かです。
私はこれを道徳原理主義と呼んでいます。
 
たとえば、ツイッターやブログでカンニングをしたとか万引きをしたとか書いた人がいると、それに対する猛烈なバッシングが起きます。過去にはテレビで万引きを告白したタレントや、イタリアの大聖堂に自分の名前を落書きした女子大生が大バッシングを受けました。犯罪や悪事の動かぬ証拠があると、安心して人を非難できるということで、大勢の人が集まってくるのです。こうした人は、自分は道徳的な行為をしているのだと思っています。
 
また、法務大臣が死刑執行を行わないと、バッシングが起きます。これも冷戦終結後に顕著になった傾向です。それに、少年法が厳罰化へと改正され、刑事事件の時効が廃止・延長されたりしました。こうした厳罰化を求める世論が高まったのも道徳原理主義だといえます。
ちなみに、死刑によって犯罪が減少するという根拠があるわけではなく、時効の廃止・延長にしても功利主義的には疑問でがありますが、道徳原理主義なのですから、そういうことはどうでもいいわけです。
 
小泉首相は、抵抗勢力という悪役をつくり上げてバッシングするという手法で人気を博し、郵政解散による総選挙のときは普段投票に行かないような人たちも投票所に足を運びました。現在の橋下徹大阪市長も、公務員などを悪役にしてバッシングすることで人気を博しています。
 
9.11以降、アメリカが「テロとの戦い」に突っ走っていったのも、テロリストが悪で、それをやっつけるアメリカは正義だという認識によるもので、これも道徳原理主義だといえるでしょう。
 
 
どうしてこうなったかというと、ひとつにはやはりマルクス主義の破産ということがあると思われます。マルクス主義では道徳はイデオロギーのひとつとして批判的にとらえられていましたが、今では道徳を総体として批判する思想はなくなってしまいました(ニーチェ思想はそれに近いところがあるかもしれません)。
それに加えて、インターネットの掲示板やテレビの討論番組で善悪や正義をめぐる議論が活発化したということがあるでしょう。そうするとどうしても議論が極端に走ることになります。
 
実際のところ、道徳はできたときからの欠陥車のようなものです。スピードを出すと悲惨な事故を起こすことになりますから、これまで人類はだましだまし、それでもあちこちぶつけながら、道徳という欠陥車を運転してきたのです。
その中で人類は、正義を徹底して追求してはいけないとか、悪を徹底して排除してはいけないということを学んできました。ただ、なぜそうなのかを根拠づけることができないので、これは“おとなの知恵”とか“生活の知恵”みたいなものです。
しかし、インターネットなどのメディアが発達し、激しい議論が行われるようになると、こうした論拠のない“おとなの知恵”とか“生活の知恵”は無視されがちになり、道徳原理主義に走るようになったのです。
 
ですから、これからの思想的課題は、道徳の欠陥を理論的に解明して、道徳原理主義を止めることといえます(もっとも私はそれについてさんざん書いてきているのですが)。