世の中に、自分は努力家だと思っている人はめったにいません。たいていは自分は努力のできないだめな人間だと思っています。
どうして人は努力することができないのでしょうか。
努力する人と努力しない人はどこが違うのでしょうか。いや、そもそも努力とはなんでしょうか。
 
努力というような基本的な概念について考える場合、私は人間と動物を比較することにしています。そうすると、人間についてだけ考えているときにはわからなかったことがわかってきます。
そこで盲導犬を取り上げてみることにします。あんなにも人間に尽くしてくれる盲導犬は“努力”する犬なのでしょうか。
 
盲導犬をつくるのは、まず犬選びから始まります。犬種は、昔はシェパードもいましたが、今はたいていラブラドール・レトリバーかゴールデン・レトリバーだそうです。血統もだいじで、両親ともに盲導犬だった子犬、片方の親が盲導犬だった子犬は優先的に選ばれますし、もちろんその子犬の頭のよさや性格も見て選ばれます。
選ばれた子犬は、ブリーディングウォーカー(繁殖犬飼育ボランティア)の家庭で月齢2カ月まで母犬と兄弟犬とともに育ちます(育つ過程で選ばれるというのが正確です)。母犬の母乳を飲み、愛情を受け、兄弟との間で犬としてのつきあいを学びます(ペットショップでは2カ月未満の子犬が檻に入れられて売られていますが、これはもちろんよいことでなく、子犬の性格がゆがむ恐れが大です)
 
子犬は次に、パピーウォーカー(子犬飼育ボランティア)の家庭に1歳まで預けられ、ここで人間との関係を学びます。人間の家族の一員として愛情をもって育てられ、人間といっしょにいると楽しいと思うようになることがたいせつです。
具体的にどのように育てられるかというと、映画「クイール」において、盲導犬訓練士がパピーウォーカーに子犬を預けるとき、「この子は、なにがあっても叱らないでください」と頼むシーンが出てきます。
一般に犬は子犬のときからしつけなければわがままになると考えられていますが、ここではまったく逆です。しつけ、つまり訓練は、人間との信頼関係が築けてからすることなのです。
もっとも、盲導犬の子犬を育てるとき「なにがあっても叱らない」という原則が確立されているわけではありません。これはこの映画と原作に描かれていることです。しかし、あまり叱っては、犬は人間の愛情を感じられなくなることは間違いないでしょう。人間は子どもを叱っては、「愛情があるから叱るのだ」とか「叱るのは愛情があるからだ」とかいう適当な理屈でごまかしていますが、もちろんよいことではありません。
 
1歳になった犬は、訓練士のもとで半年から1年の訓練を受けますが、もちろんすべての犬が盲導犬になれるわけではありません。合格率は60%程度だそうです。
 
 
1年半から2年かけて、結局不合格になる犬が40%もいるというのはなかなかきびしい結果ですが、不合格になる犬はなにがよくなかったのでしょうか。
まずひとつ考えられるのは、適性のない子犬を選んでしまったということです。
それから、育てるときに人間との信頼関係がうまくつくれなかった可能性もあります。
もちろん訓練士の力量が足りなかったということもありえます。
現実には、その三つの要素の複合が原因となっているのでしょう。
 
このとき、犬の努力が足りなかったから不合格になったのだと考える人はいません。
犬に限らず動物に努力を求める人はいません。
当たり前のことですが。
 
これが人間になるとどうでしょうか。
たとえば子どもをピアニストにしようとしてピアノを習わせたものの、なかなか上達しなかったとします。
このとき、素質のない子にピアノを習わせたということが考えられますし、ピアノの先生の教え方が下手だったということも考えられます。
しかし、すべての親やピアノの先生がそう考えるとは限りません。
子どもの努力が足りないせいだと考える人もいます。そうして子どもに、もっとがんばれ、やる気を出せと叱咤激励します。それでも上達しないと、子どもに失望します。
 
これが人間社会で行われていることです。自分のせいだと考えることのできない人が相手のせいにするために、「努力」という概念を持ち出すのです。
ですから、自分は努力のできる人間だと思っている人はめったにいなくて、ほとんどの人は自分は努力のできないだめな人間だと思わせられているのです。
 
「努力」という概念があるために多くの人が不幸になっています。
 
もっとも、「努力」にも使い道はあります。
それは人を非難するときに役立つということです。
それから、「今まで自分は努力してこなかった。これからは努力しよう」と自分を奮い立たせるときにも役立ちます。なにしろ私たちの頭には「努力」という概念が普通に入っているので、そう考えるのが自然です。
 
世の中には、少し努力すれば幸福になれるのに、努力しなくて不幸になっている人が多くいます。そういう人は、不当に努力を要求され続けたり、その他さまざまなことで性格がゆがんでしまったのでしょう。
努力すれば報われるという経験を何度もすれば、誰でも努力するようになります。そうするとそれは当たり前の行為で、「努力」と名づけることもありません。
 
カバ園長のあだ名で親しまれた故・西山登志雄氏は、「動物はいつも一生懸命」という言葉で動物の魅力を語っておられました。
人間も動物なのですから、「人間もいつも一生懸命」なのです。
一生懸命に見えない人間がいるのは、人間社会があまりにも愚かだからです。