新聞を購読していると、たまに配達員のミスで新聞が配達されないことがあります。そんなときは販売店に電話して、配達してもらうことになりますが、ときにはこちらの勘違いで、実はちゃんと配達されていたのに電話してしまうことがあります。
 
私が子どものころ、そんなことがありました。夕刊が配達されていないと勘違いして、母が販売店に電話して、配達を依頼しました。父がそうしろと指示したのかもしれません。実際は家族の誰かがどこか目立たないところに置いていたのです。
時刻が遅かったので、販売店の店主がきて、謝罪とともに夕刊を置いていきました。ところが、そのあとすぐ、夕刊のあることがわかりました。
父は母に、すぐに新聞販売店に電話して、こちらの間違いだったと伝えろと言いました。しかし、母はぐずりました。
すると、父が激怒しました。このままでは配達員がミスしたということで店主から叱られるではないかというのです。
説明しておくと、当時は新聞配達は貧しい家の中学生とか苦学生がする仕事というイメージで、まだ高度成長による人手不足前ですから、雇用主のほうが優位な時代でした。ですから、少年の配達員が店主から叱られるというのは一応ありえたでしょう。
 
母はわざわざ電話するようなことではないと主張しました。こちらのミスを認めるのがいやだということもあったでしょう。配達員が叱られるというのは考えすぎだということも言ったかもしれません。
父は、少年が叱られたらかわいそうだ、もしかしたらクビになるかもしれないからどうしても電話しろと言って譲らず、なんだかすごい険悪なことになってしまいました。
 
結局、電話しないまま終わったのですが、この父と母のやり取りをみなさんはどう思われるでしょうか。
お父さんは新聞配達の少年の身を案じるすばらしい人だ、お母さんが間違っているというふうに思うのではないでしょうか。
 
現場にいた私は必ずしもそうは思いませんでした。なぜなら父の怒り方が尋常ではなかったからです。
こんな怒り方をするほうがおかしいのではないかというのが率直な感想でした。
 
そのとき私はまだ小学生でしたから、それ以上のことは考えられませんでしたが、のちのちこのことを思い出して、自分なりの考えをまとめたので、それを書いてみます。
 
父が言うように、少年の配達員が店主に叱られるということはありえます。ただ、それはあくまで可能性です。
しかし、私の家では母が父に叱られるということが現実として起きています。
何十%かの確率で叱られる少年と、100%の現実として叱られている母。
人が叱られるのがかわいそうなら、どちらがかわいそうでしょうか。あるいは、どちらを回避するべきでしょうか。
かわいそうになるかもしれない少年を救うために、母を確実にかわいそうにしている父は間違っていると私は思いました。
 
父が間違っていると思う根拠はもうひとつあります。
それは、父が新聞配達の少年を救いたいと思うなら、母から販売店の電話番号を聞いて、自分で電話すればいいのです。そうすれば確実に少年を救うことができますし、母を叱る必要もありません。
 
父は「貧しい新聞少年のため」という正義の旗印を手にしたことで、思う存分怒りを発散させただけともいえます。
 
ちなみに父は晩年まで、ユニセフやその他の団体を通して世界の難民などを救うためによく寄付をしていました。それだけを見ると、立派な人に見えるでしょう。しかし、身近な人間にはまるでやさしさを示すことのできない人でした。だからこそ遠い世界、抽象的な世界で人にやさしさを示していたわけです。
 
 
私の父は特別な人間でしょうか。
いや、程度の差はあれ、みな同じようなものではないでしょうか。
たとえば、殺人犯は死刑にするべきだと主張する人がいます。そういう人は、「殺された人とその遺族のため」ということを正義の旗印にしますが、どこまで「殺された人とその遺族のため」を思っているかはわかりません。
ただ人を死刑にすることを望んでいるだけの人かもしれません。