大震災1周年を迎え、改めて被災者の皆様にお悔やみとお見舞いを申し上げます。
 
震災関連のテレビ番組を見ていると、強い悲哀の感情が押し寄せてきて、いたたまれない気持ちになります。1年ではなかなか傷が癒えません。
もちろん震災の規模があまりにも大きかったからですが、報道の仕方にも問題があるかもしれません。
 
私は津波で家や車が押し流されていくシーンをテレビで見ると、ついつい目をこらして、人が流されていないか、家の中から助けを求める人がいないかと探してしまいます。しかし、人の姿を見つけたためしがありません。まったく無人の映像ばかりです。
もちろんこれは編集されているからです。
震災当時シンガポールに在住していた知人とこの前会って話したのですが、シンガポールのテレビは、中国のテレビの映像を使うことが多いこともあってか、人の流される映像や死体がごろごろしている映像を平気で流していたそうです。
そういう悲惨な映像は見たくないという気持ちはもっともですが、真実に直面したほうがいいということもいえます。
 
私の母が亡くなったとき、兄はちょうど奥さんが出産間際だということで、母の死に目にあえませんでした。父は兄に、どうせあえなかったのだから、あくまで出産に付き添ってやれ、そのため葬式に来れなくてもいいと言いましたが、私は絶対に来たほうがいいと言いました。母の遺体を見るということが母の死という事実を受け入れるためにも必要だと思ったからです。火葬したあとの遺骨を見るのと、遺体を見るのとでは大きな違いがあると思います。
 
震災での遺体の映像を見るのはつらいことですが、それを見たほうが早く心の傷が癒されるということもあると思います。
もっとも、悲惨な映像は見たくないという気持ちももっともなことなので、簡単に結論は出せませんが。
 
私はこうした震災に対してあまりにも無力ですが、なにか役に立てることはないかと探すと、震災時に被災者が示した行動を理論づけることでしょうか。
 
あのとき被災者は忍耐心と助け合いの精神を示し、世界の人々から高く評価されました。しかし、従来の倫理学ではそれを理論づけることができません。従来の倫理学では、良心や道徳性は人間の高度な知性の働きによるものとされ、ごく平凡な人たちが無秩序の中で平常時以上に良心や道徳性を示すということは説明できないのです。
 
私の提唱する新しい倫理学では、利他行動や助け合い行動は本能に基づくものです。ですから、あの極限状態で虚飾をはぎとられた人間は、本能的な行動をとったということになります。
ちなみにああした災害時に助け合うのは日本人だけではありません。そのことは「災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」(レベッカ・ソルニット著)という本に書かれています。この本によると、とくに欧米のメディアは、社会の下層の人たちが商店を襲撃したりする場面を好んで報道するため、間違ったイメージがつくられるということです。
 
新しい倫理学では、災害時の人々の行動は人間本来の姿が現れただけのことで、これを論じてもあまり意味はありません。むしろ問題は、さまざまな知識や文化に縛られた平常時の人間のほうにあります。
たとえばあの震災時、被災地の人たちは商品を求めてスーパーの開店を何時間も並んで待ち、開店しても商品はすぐに売り切れ、それでも文句を言わずに去っていきました。
これがもし平常時だとすると、並んだ客は、「何時間待たせるんだ」と文句を言い、「商品がないとはなにごとだ。商品をそろえるのは店の義務だろう。俺たちをバカにするのか」と怒りをエスカレートさせたに違いありません。
災害時じゃないのだから当然だという意見もあるでしょうが、こうした人の行動は商店の側の事情をまったく考慮しない利己的なものです。そして、こうした利己的なふるまいが当たり前とされるのが今の世の中なのです。
 
震災時の人々の行動が当たり前とされる世の中にならなければなりません。