大阪の学校の卒業式における国歌斉唱と起立問題から派生した府立和泉高校の“口元チェック”問題ですが、中原徹校長は自身のブログにおいて、チェックしたのは自分でなく教頭だとか、時間は5秒ぐらいだとか、1030メートルぐらい離れていただとか述べていますが、つまらない弁解です。橋下徹市長がせっかく「服務規律を徹底するマネジメントの一例」と絶賛しているのですから、橋下市長にも失礼です。
とはいえ、歌っているかいないかチェックするというのは、さすがに誰の目から見ても姑息な行為なので、弁解したくもなるでしょう。
 
しかし、ネットの反応を見ていると、相変わらず不起立教師バッシングの意見が多いようです。2ちゃんねるがそういう反応なのはだいたい想像がつきますが、BLOGOSというサイトの掲示板も8割ぐらいが不起立教師に批判的です。
 
『大阪の「口元チェック」騒動、あなたはどう見る?』
 
不起立教師を批判する論理は、ほとんどがルールや規律や命令は守るべきだからというものです。
国歌斉唱時には起立するべきだからという意見もありますが、これは価値観の問題ですから、価値観の違う人は説得できません。人に礼儀を尽くすのは合理的行動ですが、国旗や国歌に礼儀を尽くすのは合理的行動とはいえませんから、行為そのものの正しさを説明することはできないわけです。
そのためルールや規律や命令は守るべきだからという論理になります。
しかし、そのルールや規律や命令は正しいか否かという議論はありません。ルールや規律や命令にまったく無批判なのです。
 
なぜこういう人が多いのでしょうか。それは日本の教育がだめだからです。だめな教育はだめな人間をつくります。ルールや規律や命令を無批判に受け入れるのはだめな人間です。
 
日本の学校は圧倒的に、生徒にルールや規律を守らせることにこだわっています。そういう学校で学ぶと、人にルールや規律を守らせることにこだわる人間になってしまいます。
 
たとえば、日本の学校は生徒の服装や髪形や髪の毛の色に異常にこだわります。その結果、人の服装(とくに若者の服装)に異常にこだわる人間が量産されます。そのひとつの例が、2010年のバンクーバー冬季オリンピックにおいてスノーボード代表の国母和宏選手が制服を“腰パン”にしていたということで大バッシングを受けたことです。これから国を代表して戦いに行こうという若者を後ろから撃つ日本人がいっぱいいたのです。
このことは「リクルートスーツと学生服」というエントリーでも書きました。
 
こうした教育は富国強兵と軍国主義の時代のものです。兵隊と単純労働の労働者をつくるための教育です。そこから一歩も進歩していないのです。
左翼教師は軍国教育を批判して、平和教育への転換をはかろうとしましたが、たとえば生徒を校庭に整列させて、気をつけ、休め、前へならえ、右向け右、回れ右など軍隊と同じことをさせることにはまったく無批判でした(こうしたことは自衛隊か警察に就職しない限り役に立ちません)。
そのため戦後教育も、教科書の内容は多少変わりましたが、形態としては軍国時代のままなのです。
 
たとえば、教師は職務命令に従うべきだという意見があります。
戦争映画を観ていると、上官が「これは命令だ!」と言う場面がよく出てきます。「命令に従え」というのは軍隊の論理です。
一般の会社でも命令に従うべきではあるのですが、あくまで上司は部下を動機づけ、納得ずくで動かさなければなりません。納得いかない部下を「これは命令だ!」と言って動かす上司は指導力がないということになってしまいます。
 
ちなみに民主国家では、間接民主主義とはいえ国民が法律をつくるわけですから、国民はその法律が正しいかどうかを判断する力を持たなければなりません。ルールや規律や命令に従えと言っている人は、民主国家にはふさわしくない人です。
 
そのルールや規律や命令は正しいか否かということを考えさせる教育が必要です。