29日、3人の死刑囚の死刑が執行されました。記者会見に臨んだ小川敏夫法務大臣は「刑罰権は国民にある。国民の声を反映するという裁判員裁判でも死刑が支持されている」と述べました。
行政訴訟では「国民の声」などまったく無視した判決が連発されるのに、こんなところだけ「国民の声」を持ち出すとは、司法関係者も身勝手なものです。
「国民の声」を持ち出すのは、死刑そのものに論理的な根拠がないからです。「正義」を持ち出しても、「正義ってなんですか」と問われると、誰も答えられません。
「国民の声」ももちろん論理的なものではありません。「国民の声」とは要するに「国民感情」といってもいいでしょう。「感情」とは不合理なものです。
 
たとえば、話は変わるようですが、AIJ投資顧問が1000億円以上を消失させ、年金基金に大きな損失を与えたという事件があります。27日、衆院財務金融委員会にAIJ投資顧問の浅川和彦社長が参考人として出席し、質疑に答えましたが、私はこの人はまだ逮捕されていなかったのかと、軽い驚きを覚えました。お金の行方はまだよくわかっていません。浅川社長は隠しているお金を持って行方をくらませる恐れがないとはいえないので、早く身柄を拘束したほうがいいと思うのですが。
それはともかく、この事件が国民に与える損失はきわめて大きいものですが、この事件について国民感情はあまり大きく動きません。
それは考えてみれば当たり前で、殺人事件は具体的にイメージできますし、被害者や被害者遺族の心の痛みもわがことのように思うことができますが、1000億円の損失というのは具体的にイメージできません。それに、年金をもらうのは20年も30年も先だという人はますますピンときません。
 
つまり、私たちの感情が合理的ではないのです。殺人事件は少数の人に大きな痛手を与え、AIJ事件は多数の人に小さい痛手を与えるのですが、トータルしてどちらの痛手がより大きいかというと、AIJ事件のほうかもしれません。
 
私は株式投資を少しします。「少し」というのは、私はあまり投資向きの性格ではないことがわかったので、あまり売買をせず、株主優待と配当目当ての株を少し持っているだけにしているからです。
それでも、一応株式投資をした経験から、人間の感情はいかに不合理なものであるかを痛感しました。
つまり素人が感情のままに株式の売買をすると、たいてい損をするのです(プロはそういう感情でなく売買して儲けているわけです)
ですから、最近は経済学や投資の世界では、行動経済学や行動ファイナンスといって、人間の不合理な行動や感情を研究することがブームとなって、多くの本が出版されています。
 
ところが、法学や司法の分野では、相変わらず「感情」を根拠にして判決が下され、死刑が執行されています。
もちろん「感情」に合理的根拠があるか否かということはまったく検証されません。
たとえば、よく「足を踏まれたほうは痛みを覚えているが、踏んだほうはすぐに忘れてしまう」ということが言われます。そうすると、痛みの記憶を根拠に復讐すると、復讐されたほうは納得がいかないので、復讐がどんどんエスカレートしていく可能性があります。同様に「感情」を根拠に人を罰していると、社会の「処罰感情」がどんどんエスカレートしていく可能性があるわけです。
 
死刑のような重大事項は、「感情」という非合理的なものを根拠にして行うべきではありません。
一方、AIJ事件のようなことは、「感情」がなくてもきびしく追及していかなければなりません。
 
法学や司法の世界は、「感情」ではなく合理的な論理によって運営されるべきです。