「戦後民主主義」という言葉があります。これはどちらかというと否定的な意味で使われることが多いようです。
確かに「戦後民主主義」はアメリカから与えられたもので、日本人がみずから勝ち取ったものではありませんし、あんまりうまく機能しているともいえません。
しかし、「戦後民主主義」の対になる言葉は「戦前民主主義」のはずです。「戦前民主主義」には女性の参政権はありませんでしたし、軍部の暴走を防ぐこともできませんでした。「戦後民主主義」と「戦前民主主義」を天秤にかけて、「戦前民主主義」のほうがよかったという人はいないはずです。
 
では、「戦後民主主義」という言葉を否定的に使う人は、なにを否定しているのでしょうか。
 
ひとつには、戦後より戦前のほうがよかったと考えている人が少なからずいます。戦前の家父長制、天皇制、強力な軍備などにノスタルジーを感じている人たちです。
しかし、「戦後より戦前のほうがよかった」などとあからさまに言うと、圧倒的に反論されてしまいます。そこで、「戦後民主主義はだめだ」というふうに言うと、よりよい民主主義を求めて言っているかのように誤解してくれますし、本人もそういう錯覚に陥って気分がいいというわけです。
 
もうひとつには、民主主義そのものを否定したいという人もいます。民主主義というのは、その国民のレベルの政治になってしまいますから、優秀な人、あるいは自分は一般大衆よりも優秀だと思っている人のほとんどは内心、民主主義が嫌いです。しかし、「民主主義はだめだ」などと言うと圧倒的に反論されてしまうので、「戦後民主主義はだめだ」と言うわけです(「衆愚政治はだめだ」とか「ポピュリズムはだめだ」と言うこともあります)。そうすると、「戦後民主主義」に代わる、よりよい民主主義を求めているように誤解してくれますし、本人もそういう錯覚に陥って気分がいいというわけです。
 
 
「一国平和主義」という言葉もあります。
これはもちろん否定的に使われます。一国だけ平和にやっていこうとしてもうまくいくものではないし、かりにうまくいっても、他国のことに関心を持たないのはよくないというわけです。
 
「一国平和主義」の対になる言葉は「世界平和主義」のはずです。
「一国平和主義」を否定する人は「世界平和主義」の人なのでしょうか。
いや、私の見るところ、「一国平和主義」を否定する人の中に「世界平和主義」の人はほとんどいません。
 
世の中において戦争はデフォルトとして設定されています。ほんどの国は軍備を持ち、いつでも戦争ができるように準備しています。
「平和主義」という言葉はありますが、「戦争主義」という言葉はありません。戦争するのは当たり前のことですから、「主義」ではないわけです(「好戦主義」という言葉はありますが、これは必要以上に戦争することです)
しかし、戦争するときは、「われわれは平和を望むが、相手があまりにも暴虐なためにやむをえず戦争するのだ」というふうに言います。好戦主義と思われると不利だからです。これは、誰でも金儲けはしたいが、金儲け主義と思われると不利だという事情と同じです。
 
こういう世の中において、平和主義者というのは当然ながら少数派です。ただ、日本はあまりにもバカげた戦争をしたために、世界でも特別に平和主義者の多い国になりました。
ですから、日本においては平和主義を否定するのに一工夫する必要がありました。そこで考えだされたのが「一国平和主義」という言葉だったのでしょう。
日本の平和主義は「一国平和主義」だと規定し、「一国平和主義」を否定する。そうすると、否定する人は「世界平和主義」の人のように誤解されますし、本人もそういう錯覚に陥って気持ちがいいというわけです。
 
「戦後民主主義」も「一国平和主義」も、二つの言葉を組み合わせることで誤解と錯覚をつくりだしています。
そして、誤解と錯覚の中に姿を隠しているのは、民主主義や平和主義が嫌いな人たちです。
この人たちは、誤解と錯覚の中にいるために、自分で自分のことがわかっていません。
「戦後民主主義」や「一国平和主義」という言葉を好んで使う人は警戒したほうがいいと思います。