私も時々そのブログを拝見しているあるカリスマブロガーは、「自分の頭で考えろ」ということを繰り返し言っておられます。確かにもっともなことで、ネットの言論を見ても、みな同じようなことばかり主張しているのは、要するに人の受け売りだからです。私もこのブログでついつい自分の頭で考えることのたいせつさを説きたくなりますが、「自分の頭で考えろ」と言われたからといって、自分の頭で考えられるようになるわけではないと思って、自制しています。
 
「すべてのものを疑え」ということもよく言われます。哲学系の知識人がよく言いますし、成功した起業家などが言うこともあります。私もついつい言いたくなるのですが、実際すべてのものを疑うことなどできるわけはないので、これも言うのは自制しています。
 
世間の常識を疑い、自分独自の考えを持つのはたいせつなことですが、それは簡単にできることではありません。また、自分独自の考えを持っても、それが間違っていては話になりません。単なる変人になるだけです。
数ある世間の常識の中で間違った常識に気づかないといけないわけです。
そのためにはどうすればいいでしょうか。
 
学者や知識人は、知識を深めたり、知性を磨いたりすることがたいせつだと説くでしょうが、私の考えは違います。
いや、知識を深めたり、知性を磨いたりすることも必要ですが、それだけではだめです。肝心なのは、感性であり、直感や直観です
 
世間の常識のすべてを疑うのは現実的ではありません。おかしいと思うものだけ疑えばいいのです。そして、おかしいものをかぎ分けるのは、知性というより感性、つまり直感や直観だというわけです。
 
こうした感性は生理的、原始的、本能的なもので、むしろ知性の対極にあるものです。
そして、生理的、原始的、本能的な感性は、おとなよりも子どもにより強くありますから、子どもの感性を取り戻すことがたいせつになってきます。
また、子どものころに感じた疑問を思い出すこともたいせつです。
私の場合、子どものころに感じた疑問をずっと追究してきたといっても過言ではありません。
 
たとえば私は幼稚園か小学校1年生のころ、消防と警察の役割を学び、消防の仕事が火事を消すことだと知って、それはとてもたいせつな仕事だと思いました。
しかし、警察の役割はピンときませんでした。防犯パトロールはたいせつな仕事だと思いましたが、犯罪が起きたあとに犯人を探して捕まえることの意味がわからなかったのです。
もっとも、犯人を捕まえることでその犯人の次の犯罪を防ぎ、また別の犯罪を防ぐ意味もあるということを知り、一応納得しましたが、あくまで「一応の納得」です。消防の役割にはなんの疑問も感じなかったのとは大きな違いです。
 
また、私はなぜ学校に行くのかよくわかりませんでした。たとえば1日5時間授業を受けたとして、そこで学んだものの価値はとうてい5時間分あるとは思えませんでした。私の直観では1時間分ぐらいの値打ちがやっとでした。
それでも、なんとか学校に行くことを納得したのは、父親が毎日会社に行ってたいへんな思いをしているのだから、子どもの私も毎日学校に行ってたいへんな思いをしなければ不公平だという理屈からでした。
 
結局、私の思想は、警察や犯罪対策についての疑問、学校についての疑問を追究することで形成されたようなものです。
 
それから、私はみんなが同じことを言う状況にとりあえず不快感を覚えます。
そういう状況が長く続くと、当然不快感はより強くなります。
たとえば、なにか犯罪が起こるたびにみんなは犯罪者を非難します。犯罪はしょっちゅう起こっていますから、みんなは毎日のように同じことを言っているわけです。いくら言っても犯罪がなくなるわけでもないのに、まったく進歩のない人たちです。私はこういう人たちをどう説得すればいいかと考えて、自分の思想を深化させてきました。
 
みんなが同じことをずっと言い続けているというのは、たいていその言っていることが間違っているからです。みんなが正しいことを言えば、すぐに事態は正しい方向に修正され、言う必要はなくなってしまうはずだからです。
ですから私は、みんなが同じことをずっと言い続けているときは、まったく逆のことを考えて、それが正しいという理屈を考えてみます。そうすると、しばしば逆の考え方のほうが正しいと思えたりします。こうしたやり方も自分独自の考えを形成するのに役立ちます。
 
要するに「すべてを疑え」というのは非現実的ですから、正しく疑うためには、感性を働かせること、子どもの感性を取り戻すこと、子ども時代の疑問を思い出すこと、みんながいつも同じことを言う状況に不快感を持つことなどがたいせつだと私は考えています。参考にしてください。