5月1日、「大阪維新の会」市議団が「家庭教育支援条例案」を発表しましたが、これに対して批判が噴出し、市議団は7日、条例案を白紙撤回することを決めました。いかにも「大阪維新の会」らしい顛末です。
このことは全国的にはあまり報道されていないので、念のためにふたつの記事を張っておきます。
 
家庭教育支援条例案:虐待防止狙い 維新の会、提案へ
 毎日新聞 20120502日 大阪朝刊
 大阪市議会の最大会派「大阪維新の会市議団」(33人)は1日、児童虐待事件が多発する現状を踏まえ、家庭教育の支援などを目的にした「家庭教育支援条例案」を5月議会に議員提案する方針を決めた。第2会派の公明党と協議し、可決を目指す。
 条例案は、家庭用道徳副読本の導入▽乳幼児との触れ合い体験学習の推進▽発達障害課の創設▽保護者を対象にした保育士体験の義務化−−などの内容で、「親学」を提唱する高橋史朗・明星大教育学部教授の助言を受けて条文を検討している。
 教育関連では、橋下徹市長が提案した教育行政基本条例案と市立学校活性化条例案の2案が5月議会で議決される見通しで、維新市議団はこの2案を補完する条例と位置づけている。【林由紀子】
 
大阪維新の会:「発達障害は親の愛情不足」 「家庭教育支援条例案」に批判続出 市議団提案延期
 毎日新聞 20120507日 大阪夕刊
 橋下徹・大阪市長が代表を務める「大阪維新の会」の市議団が議員提案を予定している「家庭教育支援条例案」に批判の声が広がっている。条例案は、児童虐待や子どもの非行などを「発達障害」と関連付け、親の愛情不足が原因とする内容だが、医師や保護者らが「根拠がない」「偏見を助長する」と猛反発。発達障害の子どもを持つ保護者らの13団体は7日午後、議会を訪れて提案中止を要望。市議団も5月議会での提案見送りを決めた。
 条例案は今月1日、維新市議団が公表。児童虐待が相次ぐ現状を踏まえ、家庭教育の支援や親に保護者としての自覚を促す目的で作られた。「親になるための学びの支援」「発達障害、虐待等の予防・防止」など全5章、23条から成る。
 しかし、発達障害について「乳幼児期の愛着形成の不足」が要因と指摘し、「伝統的子育て」によって障害が予防できるなどと言及した条文に批判が続出。高田哲・神戸大大学院教授(小児神経学)は「親の育て方が原因であるかのような表現は医学的根拠がないばかりか子どもや家族が誤ったイメージで見られかねない」と危惧する。
 長男(16)が広汎(こうはん)性発達障害という母親(45)=東大阪市=は「私のせいで子どもが発達障害になったと言われているようで傷ついた。最近は理解も広がってきたと思っていたのに、怒りを通り越して言葉にならない」と憤る。「大阪自閉症協会」「大阪LD親の会 おたふく会」など大阪府内を中心に活動する13団体は7日、「学術的根拠のない論理に基づいている」として条例案撤回のほか、当事者団体や専門家を含めた勉強会の開催を求めた。
 インターネットの「ツイッター」でも1日以降、「うちの子は失敗作ですか」「ニセ科学だ」などと抗議が噴出。橋下市長は7日、記者団に「発達障害の子どもを抱えているお母さんに愛情欠如と宣言するに等しい」と苦言を呈し、市議団に条例案見直しを求めたことを明かした。【林由紀子】
 
これに関し、名前を挙げられた高橋史朗・明星大教育学部教授は、「ある県の極めて粗雑な非公式な私案」がマスコミに流れ出たのは理解に苦しむと言いつつも、「環境要因や育て方が(発達障害の)二次障害に関係するとの見解までもタブー視」するのはよくないと主張しておられます。
 
 
この条例案には、「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因である」「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」というくだりがあり、この部分が非科学的であるとして集中的に批判されています。確かにその批判はもっともですが、私はこの条例案のあまり批判されていない別の点について批判したいと思います。
 
この条例案の前文の前半部分を引用します。
 
家庭教育支援条例 (案)  
(前文)
 かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた。
 しかし、戦後の高度成長に伴う核家族化の進展や地域社会の弱体化などによって、子育ての環境は大きく変化し、これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず、親になる心の準備のないまま、いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている。
 
つまり、昔は家庭や地域社会がちゃんと子どものしつけや教育をしていたが、最近は家庭や地域社会の教育力が低下してきているという認識が示されているわけです。この認識は幅広く共有されており、マスコミでも普通に語られています。たとえば、最近の親は家庭でするべきしつけをせず学校任せにしている、といった具合です。
ですから、このくだりを読んでも疑問に思う人は少ないでしょう。
しかし、「昔は家庭や地域社会が子どもをちゃんと教育していた」というのは、実はトンデモ歴史観なのです。
子どもの教育やしつけのことがうるさく言われるようになったのは最近のことです。昔は今のように子どものしつけや教育をしていなかったのです。
 
私は、昔の寺子屋では子どもに行儀を教えることはなく、子どもはそれぞれ好き勝手な格好で勉強していたということを次のエントリーで指摘しました。
「オランダの学校と寺子屋」
 
今回は、「日本人のしつけは衰退したか」(広田照幸著・講談社現代新書)に基づいて、昔は今のように子どもの教育・しつけをしていなかったということを言いたいと思います。
適当に目についた部分を引用します。
 
特に、幼少期のきびしいしつけが重視されてきた西洋とは対照的に、日本の伝統的な子供観は、子供は自然に大きくなって一人前になるものだという考え方が支配的であった(山住正己「近世における子ども観と子育て」)。昭和初めの熊本県須恵村に住み込んだ米国人の人類学者は、小さい子供が傍若無人にふるまっても大人たちがほとんど怒らないことを詳細に書き残している(スミス&ウィスウェル「須恵村の女たち」)。日本の伝統的な考え方に基けば、「子どもは年頃になれば自然に分別がつくもの」だから、小さいときにきびしくしつける必要などないと考えられていたのである。
 
実際、両親そろっている場合でも、都市下層では経済的・文化的にみて子供に十分な配慮をしてやれるだけの余裕に乏しかった。また、時間的に余裕がある場合でも、子供のことは家庭内で優先順位がけっして高くなかったからであろうか、子供は放任されていた。昭和初めの小学校教師がみた都市下層の家庭の様子を紹介しよう(古関蔵之助「細民街を生活環境とする子供等」)
共稼ぎの場合。「父母は朝早く出て夜遅く帰宅する。労働者が家を留守にすることは夥しいもので、仕事の都合では数日間子供の寝顔しか見られぬ事がある。……父母は留守勝ち故、三銭おくからこれで好きなものを買へとあてがふのである」。
母親が主婦の場合。「夫が朝早くから外に出て働いてゐるのに、家を預かってゐる主婦は昼寝をしたり、隣近所の人々とお茶を飲みつゝ、我が子の行動などには皆目無関心で、雑談に耽つてその日その日を無意味に暮らしてゐる」。実際には、内職に従事する率が非常に高かったから、内職のじゃまにならないよう、子供を追い出した家庭も多かったはずである。
 
このように、農村でも都市でも、多くの親たちはしつけや家庭教育に必ずしも十分な注意を払っていなかった。村では、しつけや人間形成のさまざまな機会は、近隣や親族・若者組など大きなネットワークに拡散的に埋め込まれていた。都市でも、下層から庶民層にいたる広い層で、家族という単位自体が不安定で流動的であったし、経済的・時間的余裕の少ない多くの親にとって、子供のことはなおざりにされがちであった。「昔の親は子供をしっかりしつけていた」というイメージにあてはまらない親の方が、むしろ普通であったのである。
 
この一冊の本からの少しの引用だけでは十分な根拠を示したことにはならないかもしれませんが、あとはこの本を読むなり、昔の庶民の生活を調べるなりしてください。
「昔の親は子どもをしっかりしつけていた」と主張する人はほとんどの場合、なにか根拠を示すわけではなく、ただ自分の印象を語っているだけですから、比較すればよくわかるはずです。
 
ちなみに、とくに教育やしつけをしなくても人間は悪くなりません。もともと悪く生まれついているわけではないので、当たり前のことです(子どもに教育やしつけをしなければならないという近代的教育観のほうがへんなのです)
 
「昔の親は子どもをしっかりしつけていた」というのは、年寄りが「昔はよかった」「近ごろの若い者はなっていない」というのと同じようなものです。マスコミまでこんな妄言を信じてしまうのは困ったものです。
 
しかし、こうした間違いを放置しておくと世の中が間違った方向に行くことになりかねません。たとえば以前、統計的には少年犯罪は減少し続けていたにもかかわらず、「少年犯罪がふえている・凶悪化している」ということが盛んに言われ、それを根拠に少年法が厳罰化の方向に改変されてしまうということがありました。
正しい歴史観を持たないと、「家庭教育支援条例案」みたいなトンデモ法案が通ってしまうことにもなりかねません。