「ことわざ辞典」の前書きや後書きにはたいてい、「ことわざとは先人の知恵や経験が詰まったものであり、私たちにとっては人生の指針となるものである」という意味のことが書いてあります。私はこれを読むたびに、自分はことわざを人生の指針にしたことなどないけどなあと、納得いかない思いがしていました。
今、ウィキペディアで「ことわざ」の項目を見てみると、「(諺、英語:proverb)は、鋭い風刺や教訓・知識など含んだ、世代から世代へと言い伝えられてきた簡潔な言葉のことである」と定義され、また、「ことわざは、観察と経験そして知識の共有によって、長い時間をかけて形成されたものである。その多くは簡潔で覚えやすく、言い得て妙であり、ある一面の真実を鋭く言い当てている。そのため、詳細な説明の代わりとして、あるいは、説明や主張に説得力を持たせる効果的手段として用いられることが多い」と説明してあります。つまり、「教訓・知識」や「効果的手段」という実用的価値を認めているわけです。
 
確かにことわざの中には、実用的なものもあります。たとえば、「腹八分目は医者いらず」のように健康に関するもの、「月がかさをかぶると雨」とか「霧の深い朝は晴れ」とか天候に関するものなどです。
しかし、こうした実用的なものは、たくさんあることわざの中のごく一部です。ほとんどのことわざは実用的ではありません。それは、正反対の意味を持つことわざがたくさんあることを見ればわかります。
たとえば、こんな具合です。
 
<待機よりも行動をよしとすることわざ>
善は急げ
先んずれば人を制す
巧遅は拙速にしかず
案ずるより産むが易し
虎穴に入らずんば虎児を得ず
まかぬ種は生えぬ
 
<行動よりも待機をよしとすることわざ>
急がば回れ
せいてはことを仕損じる
果報は寝て待て
待てば海路の日和あり
残りものに福がある
 
また、たいていのことわざには反対の意味のものがあります。
人を見たら泥棒と思え⇔渡る世間に鬼はなし
喉もと過ぎれば熱さを忘れる⇔羹に懲りて膾(なます)を吹く
蛙の子は蛙⇔とんびが鷹を生む
三人寄れば文殊の知恵⇔船頭多くして船山に登る
 
つまり、ことわざにはほとんどの場合正反対の意味のものがあるので、人生の指針や行動の指針になるわけがないのです。
では、なんのためにことわざがあるのかというと、行動や決断のあとの「気休め」のためにあります。
 
人生は、右へ行くか左へ行くか、行動するか待機するか、決断の連続です。就職、結婚という人生の重大事から、今日の昼飯になにを食べるかといったことまで決断しなければなりません。
しかし、決断というのは明確に決断できるときばかりでなく、どちらがよいかわからない場合も少なくありません。そんなときは5149みたいなことでむりやり決断するわけですが、そうした場合はどうしても心残りが生じます。つまり、行動を決断したときには、待機していたほうがよかったのではないかという思いが残ってしまうのです。
そんなとき、「善は急げ」「先んずれば人を制す」ということわざを持ち出して、心残りをぬぐい去るわけです。
逆に、待機を決断したものの、行動したほうがよかったのではないかという思いが残っている場合は、「急がば回れ」「せいてはことを仕損じる」ということわざを持ち出して、心残りをぬぐい去るというわけです。
 
なにかを決断しなければならない場合、現実を分析するのに手いっぱいで、ことわざを想起している暇などありません。しかし、決断が終わると、少し余裕ができます。そんなときにことわざを想起して、自分の決断は正しかったのだと自分を納得させるわけで、それがことわざの効用なのです。
 
行動か待機かという決断はしょっちゅうあるので、それに関することわざもいっぱいあるというわけです。
 
ある人を信用するべきか信用するべきでないか迷ったとき、「人を見たら泥棒と思え」とか「渡る世間に鬼はなし」とかのことわざを思い出して、判断の参考にする人はいないはずです。人にだまされたあとで『「人を見たら泥棒と思え」というからなあ』とか、人に親切にされたあとで『「渡る世間に鬼はなし」というからなあ』というように、あくまで事後に、その現実を受け入れやすくするためにことわざは使われるのです。
 
あくまで心の問題なので、私はそれを「気休め」効果といっています。
 
「ことわざ辞典」を編纂するような人は立派な学者であるはずです。なぜそういう人がことわざの「気休め」効果に気づかないのでしょうか。
想像するに、ことわざの「気休め」効果を認めてしまうと、ほかの思想にも波及することを恐れているのかもしれません。
そう、ほとんどの思想はことわざと同じく「気休め」効果しかないのが現実ですから。