5月21日で裁判員制度が施行されて3周年だということで、メディアは改めて裁判員制度について特集を組んだりしています。
裁判員制度は、なぜ人が人を裁けるのかという根本的な疑問は別にしても、おかしなところがいっぱいある制度です。
 
たとえば、裁判員は量刑までも判断しなければならないのですが、これは過去の判例などを知った上で判断しなければならず、本来は素人の仕事ではありません(結局、裁判官から教えられて判断するわけです)。ちなみにアメリカの陪審員は有罪・無罪の判断をするだけです。
なぜ日本の制度が量刑までも判断するものになったかというと、日本の刑事裁判は有罪率が99.9%なので、有罪・無罪の判断にはほとんど意味がないからです。
有罪・無罪についての判断は、事実についての判断ですが、量刑についての判断は“罪”についての判断ですから、神の領域だということで、その判断はしたくないという人もいるでしょう。
 
また、行政裁判には裁判員制度は適用されません。行政裁判は、9割近くが国側勝訴に終わるといわれているので、本来はこういうところにこそ市民感覚を生かすべきなのですが、裁判員制度をつくった人たちは国側寄りの人たちなのでしょう。
 
また、裁判員裁判の対象になるのは、重大な犯罪に限定されています。具体的には殺人罪、傷害致死罪、強盗致死傷罪、強姦致傷罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪、保護責任者遺棄致死、覚せい剤取締法違反、危険運転致死罪などです。これらは数も少なく、いわば“特殊な犯罪”です。
窃盗や傷害などのような、数の多い“普通の犯罪”に触れてこそ犯罪の本質が見えてくるわけで、今の制度ではせっかく裁判員をしても犯罪の本質が見えないままになるおそれがあります。
 
では、「犯罪の本質」とはなにかということですが、朝日新聞の5月22日朝刊の裁判員制度に関する記事の中に、それを感じさせるくだりがあったので、引用してみます。
 
神戸地裁で知的障害がある38歳の男性被告が自宅に放火しようとした放火未遂事件を担当した会社員男性は障害者支援のあり方を考えるようになった。
公判では被告が同居していた家族から暴力を振るわれ、邪魔者扱いされていたことがわかった。養護学校も家庭環境が改善されるよう働きかけていなかったと感じた。
判決は実刑。社会の中で更生させるのは難しいという評議の結果だった。「障害に対応しきれていない社会が、犯罪者を生み出している面もあるのではないか」と思い始めている。
 
放火未遂事件は重大犯罪ですから裁判員裁判の対象になったわけですが、これは「犯罪の本質」について考えざるをえない事件です。
知的障害のある男性被告は家族から暴力を振るわれ、邪魔者扱いされていたということですが、こうした立場の人間に罪を問うということ自体がおかしいわけです。少なくともこの男性被告が家族からまともな扱いを受けていれば、自宅に放火するなどということはしなかったはずです。
この行為が犯罪になり、実刑判決がくだるというのが今の刑事司法制度です。
私に言わせれば、この被告を有罪にすることで、この被告に暴力を振るい、邪魔者扱いをしてきた家族や、なんの働きかけもしなかった養護学校の職員を免罪しているようなものです。
つまりいちばん弱い立場の者に罪をかぶせ、周りの人間を救うのが、ある意味、刑事司法制度の本質です(これがつまり「犯罪の本質」でもあります)
 
当然、障害者は犯罪者に仕立て上げられやすくなり、刑務所の中には多く障害者が収容されていることになります。このことは「累犯障害者」(山本譲司著・新潮文庫)という本に詳しく書かれています(著者の山本譲司氏は元国会議員で、秘書給与詐取で実刑判決を受けた人です)
 
もちろん障害者以外の犯罪者もいっぱいいますが、たいていの犯罪者は、親が離婚するとか、死ぬとか、暴力を振るうとかの崩壊家庭で育ち(あるいは崩壊家庭から逃れて親戚の家や養護施設で育ち)、当然あまり教育は受けられず、また、障害者といえるほどでなくてもあまり能力に恵まれず、そのため社会の底辺で悲惨な生活をし、生きていくために窃盗をしたり、誰かに利用されたために犯罪をしたりした人です。
こういう人は犯罪を繰り返しますから、犯罪の多数はこうした人によって占められていますが、重大犯罪にいたることはめったにないので、ほとんどは裁判員裁判の対象になりません。
 
犯罪者の多くがこうした悲惨な人生を歩んできた人である一方、犯罪者を裁く裁判官、検事はエリートとして恵まれた生活をしています。
恵まれた裁判官、検事が恵まれない人間に有罪を宣告して刑務所送りにするのが法廷という場所です。
 
重大犯罪だけを対象とする裁判員制度では、こうした「犯罪の本質」がなかなか見えてきません(重大犯罪では犯罪の凶悪さに目を奪われて、犯罪者の境遇が軽視されてしまいます)
 
裁判員制度はうまく考えられています。“特殊な犯罪”だけを選び出して、国民に国民を裁かせ、そして、“普通の犯罪”の中に見える「犯罪の本質」を覆い隠しているわけです。