私の思想はきわめて単純なものです。なぜこんな単純なことを今まで誰も思いつかなかったのか不思議なほどです。
 
動物は基本的に利己的な存在で、つねに生存闘争をしています。もちろん人間も同じです。ただ、人間は爪や牙だけでなく言葉も闘争の武器にします。言葉で相手を威嚇し、言葉で相手をだますことで、自分の利益をはかります。
もちろん言葉の役割はそれだけでなく、たとえば異性を口説くことにも使われたでしょうし、また、人間は群れをつくって暮らしていましたから、群れの中の連携を深めるためにも使われたでしょう。
たとえば、人間が巨大なマンモスを倒すことができたのは、言葉によって密接な連携の狩りができたからではないかと想像されますが、マンモスを倒したあと、肉を分配するときは誰もが自分の取り分をふやそうとします。そのときも言葉が道具に使われたはずです。あいつは怠けていた、あいつは失敗した、あいつは臆病なふるまいをしたなどと言って他人の取り分をへらそうとし、自分はこんなによく働いた、自分はこんなに仲間を助けたなどと言って自分の取り分をふやそうとしたでしょう。
 
そうした中で人間は言語能力を進化させ、道徳をつくりだしたというのが私の考えです。
 
もっとも、別の考え方もあります。
ダーウィンは、社会性動物には親が子の世話をしたり仲間を助けたりする利他的な性質があり、人間は利他的な性質をもとに道徳をつくりだしたと考えました。
このダーウィンの道徳起源説は今も進化生物学界の主流の考え方となっており、たとえば「利己的な遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンスも支持しています。
 
私の説は、ダーウィンの説と正反対のものになります。
ダーウィンの説は、人間は利他的性質をもとに道徳をつくりだしたというもの。
私の説は、人間は利己的性質をもとに道徳をつくりだしたというもの。
 
したがって現在、進化生物学的な道徳起源説はふたつあることになります。
たぶんこれ以外の説はありません。
ですから、どちらかを選ぶしかありません(道徳は神によって与えられたと考える人は好きにしてください)
 
もちろん私は私の説が正しいことを確信しています。
たとえば、ダーウィン説や今までの倫理学では、善悪の定義ができませんし、正義の定義もできません。しかし、善悪や正義は自分の利益を追求するための道具だと考えると、ちゃんと定義できます。
 
自分の利益追求に都合のよいものが「善」で、自分の利益追求に都合の悪いものが「悪」で、「悪」をやっつけることが「正義」です。
たとえば、親にとって、素直な子どもは「よい子」で、反抗的な子どもは「悪い子」で、「悪い子」をこらしめることが「正義」です。
アメリカにとっては、日本のように従順な国は「よい国」で、イランのように反抗的な国は「悪い国」で、「悪い国」をやっつけることが「正義」です。
つまり、「善・悪・正義」は三元論としてとらえると定義できるわけです。
 
なお、親は子どもよりも強く、アメリカはその他の国よりも強いわけで、道徳が成立するには必ずこうした権力関係が存在します。また、親と子は愛情で結びついているので、子どもは(自分にとっては不利益な)道徳を受け入れます。ですから、道徳・権力・愛情は密接に結びついています(イランとアメリカに愛情関係はありませんが、人間は誰でも子ども時代に道徳を学びます)
 
つまり、道徳を正しくとらえると、善・悪・正義、さらには権力、愛情といった人間関係の重要な要素がよりはっきりと見えてくるのです。
 
善悪、正義は人間の生き方を示す指針だと考えると、わけのわからないことになりますし、そのために今までの人文科学・社会科学はわけのわからないものになっていました。
人間は利己的性質をもとに道徳をつくりだし、道徳を道具として生存闘争をしているという認識に立つと、人間のすべての行動は合理的ものとしてとらえることができるはずです。
 
 
 
以上、書いたことは今の段階の私なりの表現です。
前に書いたことよりも少しはわかりやすくなっているのではないでしょうか。
私の頭の中では、考えははっきりまとまっています。しかし、今まで誰も表現しなかったことを表現するには、一から全部自分で言語化しなければなりません。これがなかなかバカにならない作業です。
今日書いたことは、コペルニクスが太陽を中心に地球、金星、火星が回っている絵を描いたようなものです。これから、これを信じられるものにしていく作業も必要です。
気長に見守ってやってください。