最近、朝日新聞に小池龍之介という人が週一の連載をしていて、これがなかなかおもしろいです。こういう言い方は不遜かもしれませんが、私と考え方が似ています。
6月14日の夕刊には、犯罪についての考えが書かれていました。「ありえない!」と他人を批判する人間の心理は、「自分は、そのような非常識な人間ではなく、良識ある立派な者なのだッ」と自分に言い聞かせているのだと指摘したあと、こう続きます。
 
この対極だったのが「歎異抄」に言葉が残る親鸞です。彼はおおまかにこんなことを言います。「自分が殺しをしないのは、この心が善だからではない。たまたま恵まれた状況を与えられているから盗みや殺しをせずに生きていられるけれど、しかるべき環境と精神状態に置かれたら、盗みも、殺しもするだろう」
この話は親鸞が弟子に「私の言うことを聞けるか」と尋ね、「何でも聞きます」という答えを受けた後、「では今からたくさん人を殺してきなさい」「できません」とやり取りをしたことから始まります。「ほらできないだろう。でもそれは君の心が善だからではなく、たまたま今は殺しをする劣悪な精神状態におかれずに済んでいるからなのだよ」と述べるのです。
親鸞の目には、どんな失礼な発言も約束破りも、異常そうにみえる犯罪者も、「ありえない!」どころか「ありえる」ものに映っていたことでしょう。(後略)
 
 
もしかして小池龍之介さんは6月10日に大阪ミナミで起きた通り魔事件を踏まえてこの文章を書かれたのかもしれないと私は勝手に想像してしまいました。
なんの罪もない人を2人も殺したということで、誰もがこの事件の犯人を批判しますが、私はぜんぜんそういう気になりません。小池龍之介さんも当然同じでしょう。
 
大阪の通り魔事件の犯人礒飛京三容疑者は、小学校に通い始めたころ母親が亡くなり、父親が営んでいた材木店も倒産、父親もその後亡くなります。この情報からだけではよくわかりませんが、礒飛容疑者が愛情に恵まれて育ったのではないことは確かでしょう。
 
礒飛容疑者の親類「なんでそんな馬鹿なことを…」 小学校時代に生活暗転
 
今の世の中は、恵まれない環境で育った人を援助するのではなく、むしろ逆に、恵まれた環境で育った人と同じように行動しないといって非難しているわけで、これは異常な世の中というべきです。
 
もっとも、このように犯罪者に同情的なことを書くと、なんの罪もないのに殺された人とその遺族の気持ちを考えろと批判されるかもしれません。確かに殺された人と遺族に同情する気持ちはたいせつなことです。しかし、世の人々は被害者とその遺族に同情する気持ちがあるのに、なぜ犯罪者に同情する気持ちはないのでしょうか。せめて被害者とその遺族に同情する気持ちの半分でも犯罪者のほうに向ければと思わざるをえません。
というのは、被害者とその遺族にいくら同情し、犯罪者を非難しても、次の犯罪を防ぐことにはつながらないからです。犯罪者に同情し、犯罪者の気持ちを理解すれば、犯罪を防ぐにはどうすればいいかもわかってきます。
 
警察などが犯人を批判するのは商売だから当然ですし、不満解消のためにいつでも誰かを批判したがっている人がネットなどで批判するのもわかりますが、マスコミまでが同調するのは不思議です。犯罪者を非難してもなにも始まらないことになぜ気づかないのでしょうか。
 
 
小池龍之介さんはウィキペディアによると、東大教養学部卒、西洋哲学専攻で、お父さんのあとをついで浄土真宗本願寺派のお寺で副住職になった人です。しかし、本願寺派の教義に反した出版・活動をしたということで破門され、現在は新たな宗教法人の代表役員となっておられるようです。たくさんの著作があるので、かなり人気のある人なのでしょう。
 
私と小池さんの考え方は似ていますが、目指す方向性は違うようです。小池さんは自分自身を見つめ直し、怒りや嫉妬などの不快な感情をなくして、心安らかに生きる方法を説いておられるようです。
私は、一人ひとりが心安らかに生きられるようにということより、その方法を理論化して、世の中全体に広げたいと考えています。そのため、自分の考えを進化生物学上の理論として位置づけることに苦心し、また、倫理学に革命を起こす理論だと主張することに力を入れています。
私の行き方は、当面は小池さんのようには人気になりませんが、成功すれば効果は絶大なはずです。