このごろの政治の世界はなにもおもしろいことがありません。
消費税増税について三党合意が成立しましたが、これは想定通りです。
新聞がこぞって増税賛成を主張し、そのバックには財務省がいるのですから、増税が実現しないわけがありません。
 
民主党政権は政治主導あるいは脱官僚依存を目指しましたが、結局失敗しました。
民主党政権を批判して、「国民に信を問え」と主張する人がいますが、自民党政権に戻ってもどちみち官僚主導の政治が続くだけですから、同じことです。
この三党合意を事実上の大連立だという人がいます。そうかもしれません。
つまり民主党も自民党も同じだということがはっきりしたわけです。
 
この状況に異を唱えているのは小沢一郎氏のグループですが、小沢一郎氏は検察とマスコミによって極悪人のイメージにされてしまっているので、たいして力を発揮できそうにありません。
 
となると、橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」に期待するしかないのかということになりますが、橋下市長は原発再稼働反対の旗印をおろしてしまい、少々期待を裏切りました。
 
原発をどうするかというのは日本にとって大きな問題で、さまざまな議論が行われていますが、原発の再稼働はそんな議論とはまったく別に粛々と進んでいきます。これはまさに官僚主導の典型です。
ダム建設や干拓事業なども、激しい建設反対運動が起き、行政訴訟が行われても、ほとんど中止されるということがありません。税金の無駄遣いだとか自然破壊だとかの議論が優勢になっても、まったく無視されます。
私などは、こうしたことは自民党政権だからで、政権交代が起きれば変わるだろうと期待していましたが、残念ながら期待は裏切られました。八ツ場ダム建設再開を見てもそれは明らかです(それでも自民党政権よりはましだと思いますが)
 
橋下市長は原発再稼働問題で民主党政権と全面対決する構えでした。橋下市長と反原発は似合わない感じですし、原発再稼働問題を最大の争点に設定するのにも若干の疑問がありましたが、私はお手並み拝見という気分で見ていました。結果、やはり押し切られてしまいました。
今では橋下市長のカリスマ性も少しはげ落ちてしまったようです。
地方自治体の首長という立場とはいえ、官僚主導をくつがえすほどの力はやはりなかったということです(国政進出すると違うかもしれませんが)
 
官僚主導というのは巨大な要塞のようなもので、今のところ誰も攻略することができません。
解散総選挙を何回やってもたぶん同じなので、別の作戦が必要です。
それは、官僚組織とマスコミを切り離すことです。
今は官僚とマスコミが一体になっていて、マスコミは国民の不満をすべて官僚ではなく政治家のほうに誘導してしまいますから、官僚は安泰で、政治が弱体化するばかりです。
 
 
では、どうやって官僚とマスコミを切り離すかということですが、それにはマスコミが官僚依存になっている理由を知らねばなりません。
記者クラブがあるとか、新聞社の本社の敷地が国有地の払い下げであるとか、いろんな理由があるでしょうが、私の考えでは、マスコミが独自に善悪の判断ができなくなっていることが大きいと思います。そのため警察依存、検察依存、裁判所依存、内閣法制局依存になるのです。
 
たとえば、小川敏夫前法相は、検察の虚偽捜査報告書について指揮権発動を野田総理に相談していたことを明らかにしましたが、これについてマスコミは指揮権発動は司法への「政治介入」であるとして批判一色でした。しかし、司法に「政治介入」をしてはいけないという主張は、司法は完全に官僚主導で行われるべきだという主張と同じです。つまりマスコミは司法官僚を絶対化してあがめているのです。
 
また、詐欺商法が行われていて、マスコミはそれを取材して実態を知っていても、それを実名で報道するということはまずありません。警察が逮捕して初めて報道するのです。
警察の逮捕、検察の起訴を見て追随するのがマスコミの習性ですから、警察と検察からもたらされる情報がなにより重要です。それが官僚依存になる大きな理由ではないかと思います。
 
しかし、考えてみればわかるのですが、警察官や検察官が新聞記者以上に正しい判断力を持っているとは限りません。警察官僚や検察官は学校では優等生で、その後もずっと特殊な社会に生きています。新聞記者のほうが世の中を幅広く知っているといえますし、庶民の感情もわかるでしょう。
勉強ができることや頭がいいことと、善悪の判断が正しくできることはまったく別の問題です。新聞記者に限らず一般の人でも、警察や検察のことをどんどん批判していいはずです。
私などずっと警察や検察や裁判所を批判しています。
もっとも私は、独自の倫理学を確立しているからですが。
 
マスコミはとりあえず、善悪の判断に警察も検察も関係ないということに気づかなければなりません。