チェコとベルギーに行ってきました。ビールのうまい国に行ったのかと言う人がいましたが、そういうことではありません。私の場合、海外旅行は妻主導で、私はほとんどついていくだけです。まあ、ビールはおいしかったですが。
 
成田で飛行機に乗り込む日本人を見ていると、圧倒的にシニア層が多いです。私が海外旅行をするようになった20年くらい前は、若い人が多かったものですが。バブルのころは若いOLがよく海外旅行に行くといって揶揄の対象になっていましたし、独身貴族という言葉もありました。
昔はヨーロッパの観光地でアジア人を見かけると、ほぼ100%日本人だったものですが、今は中国、韓国、その他の国の人がいっぱいです。また、今回気づいたのは、イスラム圏からの観光客が多いことです。中でも、男はジーパンにポロシャツみたいな、ヨーロッパ人と同じ服装で、女性は黒い服に完全にヴェールで顔をおおっているというカップルをよく見かけました。ホテルのエレベーターで乗り合せたので、どこから来たのか聞いてみると、サウジアラビアからと言っていました。この手のカップルは必ずといっていいほど手をつないでいます。最初はよほど仲がいいのかと思いましたが、みんながやっているということは単なる習慣なのでしょう。女を所有しているという意味なのかもしれません。
 
最近の若い日本人はお金がないので海外旅行に行けないのかもしれませんが、語学力に自信がなくて二の足を踏んでいる人も多いかもしれません。
私も初めて海外旅行をしたときは、自分の英会話能力のあまりの低さに情けなくなりました。聞き取れないし、話せないし、中学校から大学まで英語をやってきたのはなんだったのかと思いました。
 
これは私個人の問題ではなく、日本の英語教育のせいです。おそらく普通に学校で英語を学んできた人は誰でも聞き取れないし、話せないはずです。
とくに私の世代の英語教育はひどかったと思います。今回、書店に行って今の中学1年生の英語参考書を見てみましたが、今は多少改善されているようです。
 
私の場合、最初に習った英語は、This is a penです。その次がI am a boy、それから You are a girlです。
つまりbe動詞について学んだわけです。
中学1年生に英語を教える場合、文法中心にいこうという考え方は必ずしも間違っていないと思います。しかし、例文がひどすぎます。
This is a penなんていう言葉は絶対一生使うことがありません。世の中にペンを知らない人がいるのか。いたとして、その人にペンという言葉を教えることに意味があるのか。「これは紙に字を書く道具です」と教えるべきではないかということになります(あえて考えると、観光地の土産品などでヘビの形をしたペンがあって、それがなにかわからない人に対してはThis is a penという可能性があります)
I am a boyも同じです。自分が少年であることは見ればわかるはずです。I am a boyというのは、女の子に間違えられた場合だけでしょう。
つまり、例文を暗記しても、それを実際に使うことはないのです(ちなみに最近の教科書にI am a boyはないようです。I am Murataみたいに名前をいうのはあります。これは実際に使えます)
 
be動詞の次は、I have a bookI like an appleなどの一般的な動詞ですが、この例文も実際に使うことはないでしょう。
 
なお、母音の前の不定冠詞はaではなくanになるということも、このとき学びます。定冠詞のtheも出てきますし、三単現のsもかなり早い段階で学びます。
それから、数えられる名詞と数えられない名詞の区別も学びます。appleは数えられる名詞ですが、coffeewaterは数えられない名詞なので、a cup of coffeea glass of waterといわなければならないというわけです。英語に数えられる名詞と数えられない名詞の区別があるということに軽いカルチャーショックを感じたのを覚えています。
 
テストでa appleと書いたり、三単現のsを落としたり、a coffeeと書いたりすれば、当然間違いとされます。そのため、どうしてもこういう細かいことにこだわるようになり、これが英語が話せなくなる大きな理由だと思います。
 
ちなみに私は、カフェやレストランでビールを注文する場合、a glass of beerなどといったことはありません。必ずone beerです。もしa glass of beerなどといったら、ウエイターが「えっ、ボトルで出すなということか?」などと戸惑うに違いないからです。
オーストラリア在住の作家森巣博氏のエッセイによると、数えられる名詞と数えられない名詞の区別は重要ではなく、コーヒーを注文する場合はtwo  coffeeでも two  coffeesでもいいそうです。
 
私の英語はいい加減で、冠詞がなかったり、三単現のsがなかったりしますが、そのために伝わらないということはありません。
 
確か中学2年になると、教科書がリーダーとグラマーに別れました。私のリーダーの教科書では、アメリカ人のブラウン一家というのが出てきて、両親とトムとスージーがいろいろな会話をするのですが、この設定もおかしいです。アメリカ人同士の会話を覚えても、日本人が使うことは普通ないからです。日本人旅行者がニューヨークに行って現地の人と会話するとか、アメリカ人の学生を日本の家庭にホームステイさせるとか、そんな設定であれば、そこでの会話を丸暗記すれば役に立つでしょうが。
 
実際のところ、教科書に出てくるのは、「トムは毎日学校に行きます」とか「スージーは宿題をしなければなりません」とか「今日は晴れですか?」「はい、晴れです」とか、とても現実に使うことのない言葉ばかりでした。
 
英語教科書の製作者たちは、反実用主義という信念を持っていて、絶対に実用的な表現を取り入れまいとしていたのでしょう。
また、勉強というのは楽しいものであってはいけない、砂をかむような思いでするものだという信念もあったのかもしれません。
 
いや、実用的でないだけならまだいいのですが、使ってはいけない表現も出てきます。
たとえば、Who are you ?なんていう言葉は相当失礼な表現でしょう。しかし、授業ではWho are you ? I am a studentなどという言葉を繰り返し唱和させられ、頭に叩き込まれてしまいます。
また、補助動詞を学ぶときにYou must~やYou may~という表現も覚えますが、これも現実の会話で使うと、相当失礼になるおそれがあります。
つまり、実用的でない言葉ばかりでなく、使ってはいけないような言葉まで頭に入っているので、ますますしゃべりにくくなってしまうのです。
 
 
教科書が実用的でないので、ヒアリングも当然できなくなります。
私は最初のうち、英語で話しかけられると、まったく理解できず、何度も聞き返していました。しかし、あるとき、向こうから話しかけてくる場合、それはほとんど疑問形だということに気づきました。
これは当たり前のことで、会話というのはほとんどの場合、疑問形から始まります。しかし、This is a penから習ったこともあってか、そのことになかなか気づかなかったのです。
それからは、相手が話しかけてきた場合、これは疑問形に違いないと予測して聞くようになり、そうすると格段に理解しやすくなりました。
 
人間は人の話を聞く場合、真っ白の頭で聞くことはほとんどなく、予測変換みたいに、きっとこういうことを言うだろうと予測して聞くもので、だからこそ理解しやすくなるのです。
 
たとえば、初めてカフェでコーヒーを注文したとき、なにか聞き返され、それがまったくわからず、とまどいました。
実際のところは、ミルクとシュガーはどうするのかと聞かれていたわけです。コーヒーを注文した以上、それ聞き返されるのは当たり前のことです。それを理解してからは、英語以外のわけのわからない言葉で聞き返されても、「ミルク」と答えて、ちゃんと会話が成立するようになりました。
 
相手がなにを話しているかというのは、状況からかなりの程度予測がつきます。
たとえば、街角で立ち止まって地図を見ていると、よく誰かが話しかけてきます。それはたいていCan I help you?か、それに類する言葉をいっているのです。こちらは地図に集中してろくに聞いていなくても、そう判断してまず間違いありません。
 
また、私のような旅行者がよく話しかけられる言葉は決まっています。
「どこから来たのか」
「ここに来るのは初めてか」
「何日滞在するのか」
こういう予測がついていると、単語ひとつ聞き取れただけで全体が理解できます。
 
何回も海外旅行に行っていると、空港、ホテル、レストラン、商店、切符売り場での会話は容易にできるようになります。毎回同じ会話をしているからです。
ということは、ものすごく少ないボキャブラリーでも用は足りるということです。
 
もし中学高校の英語教育の目的が日常会話ができることというのであれば、ものすごく簡単に学べることになります。実用的な表現を丸暗記すればいいからです。
たとえば、日本の商店、レストラン、居酒屋などに外国人客が来た場合の会話とか、外国人に道を聞かれたときの会話とかも、決まり切ったものですから、それを全部教科書に載せておけばいいのです。そうすると、外国人旅行者は「日本人はすごく英語ができる」と喜ぶに違いありません。
 
もちろん英語教育の目的は、日常会話ができることだけではありません。最終的には英語の専門書を読めたり、英語で論文を書けたりすることまで視野に入れている必要があるでしょう。
しかし、9割の日本人はそこまでは望んでいなくて、とりあえず英語で日常会話ができればいいと思っているはずです。
とりあえず実用的な英会話を教え、かつ将来的には本格的な英語修得につながっていくという教科書は当然できるはずです。
 
少なくともこれまでの反実用主義を排し、例文を実際に使えるものにするだけでも、日本人の英語能力はグンとアップするのではないでしょうか。