イジメについての議論が盛んです。
朝日新聞は連日、朝刊一面で「いじめられている君へ」と題して、有名人の自身のイジメられた体験などを織り込んだ助言を掲載しています。こんな人も子ども時代はイジメられていたのかというおもしろさがあり(ボクシングの内藤大助さん、経済評論家の森永卓郎さん、モデルの押切もえさんなど)、イジメられていても人生の成功者になれることを教える効果もあるかもしれません。
しかし、中学生までの子どもというのは自己決定権がほとんどないので、子どもに助言するのは筋違いのきらいがあります。
 
たとえば、学校に行かないというのは手っ取り早いイジメ回避策ですが、子どもが学校に行きたくないと言うと、おそらく9割の親は反対するでしょう。で、親に反対されると、子どもは学校に行かないわけにいきません。
親が反対するのは、憲法に義務教育の規定があるからでもあります。しかし、親が子どもの意志を尊重しないというのはよくありません。私は憲法改正をして義務教育を廃止するべきだとかねてから主張しています。
 
義務教育というのは、子どもに学校に行く義務があるのではなく、親に子どもを学校に行かせる義務があるということです。憲法の条文を示しておきます。
 
日本国憲法第26条2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。 
 
親子関係というのは人間関係の基本であり、また国家のもっとも基礎をなす部分です。そこに外部から義務規定を持ち込むというのは根本的に間違っています。
義務教育規定があるために、学校にイジメがあっても、体罰をする教師や無能な教師がいても、親は子どもを学校に行かせなければならないので、逆に学校の堕落を招いてしまいます。
日本国憲法は、帝国憲法にあった兵役の義務を廃止したのですから、同時に教育の義務も廃止すればよかったのだと私は主張しています(代わりに子どもの学習権を規定します)
 
憲法談義はさておいて、イジメとはなにか、イジメにどう対処するべきかについて考えてみましょう。
 
「イジメは犯罪だから警察力で対応しろ」と主張する人がいます。最近そういう声が強まっています。
しかし、警察は犯罪の事後処理をするだけで、犯罪の予防はしません。また、警察が対象とするのは、当然ながらひどいイジメだけです。学校でのイジメは広範囲に存在しますから、そういうのは放置されることになります。つまり、警察力でイジメを解決することはできないのです。
 
イジメについて考えるとき、たいていの人は「イジメっ子は悪い」というふうに考えてしまいます。こういう発想ではだめです。善人、悪人で色分けするというのは、「水戸黄門」とかハリウッドのエンターテインメント映画の発想です。現実はそんなに単純なものではありません。今では、単純に善人と悪人に色分けされたような小説は、エンターテインメント小説としても底が浅いとして売れません。
 
善人、悪人というような道徳的発想をすべて頭の中から追い出すと、現実が正しく見えてきます。
もっとも、この現実は複雑系です。無数の要素の相互作用によって決定されるので、すべてを把握するということはできません。
今回は、とりあえず私にわかる部分だけ書いておきます。
 
学校内のイジメは、当然ながら学校という環境が大きな原因になります。子どもがストレスを強く感じるような学校は当然イジメもひどくなります。
動物園の檻が狭いと動物同士のイジメが発生しやすいのと同じです。
 
同じ学校の中でも、子どもの資質や家庭環境によって、イジメっ子とイジメられっ子が発生します。
イジメっ子というのは、誰でも見境なくイジメるのではなく、イジメる対象を選びます。ですから、イジメられやすい要素を持った子がイジメられっ子になります。
こういうことを言うと、「イジメられる子が悪いということか」と怒る人がいますが、そういう発想はやめてくださいとお断りしています。
 
イジメられっ子というのは、たとえば気が弱くて、あまり友だちがいなくて、成績がよくなかったり(ときには成績がよかったり)、家が貧乏だったり、日本の文化になじんでいなかったりという要素を持った子どもです。
 
イジメっ子というのは、活動的で、攻撃的で、仲間がいる(イジメというのはたいてい集団で行われるので)というタイプです。
 
イジメっ子とイジメられっ子が出会ったときにイジメが発生します。
 
ですから、イジメられっ子は学校を変わることでとりあえずイジメを回避することはできますが、イジメられやすい要素はそのままですから、新しい学校でもほかの子よりもイジメられる可能性は高くなります。
 
イジメっ子というのは、たいてい家庭で強い圧力にさらされています。たとえば、成績が悪いと叱られる、物事をテキパキとしないと叱られるなどです。そういう子は、学校で成績の悪い子や動作がのろい子をイジメやすくなります。
また、家庭で暴力を振るわれている場合も、当然ほかの子に対して暴力的に振舞うことになります。
 
イジメられっ子の場合も実は同じです。家庭でいつも成績が悪いといって叱られていたり、暴力を振るわれていたりすると、学校でイジメられやすくなります(ですから、立場が変わるとイジメやすくもなります)
 
このように「イジメる・イジメられる」という関係が生じるのは、イジメられるほうがその関係を拒否しないからです。
ここがイジメを理解する上でひじょうに重要なところです。
 
普通の子なら、少しでもイジメにあうと、反撃するなり、拒否の態度を示すなりします。イジメっ子に誘われても二度とついていきません。ですから、「イジメる・イジメられる」という関係が持続することはありません。
 
しかし、イジメられっ子というのは、イジメっ子との関係をみずから断とうとしないのです。
これは、イジメっ子の暴力が怖くて関係を断てないのだと一般に思われていますが、それだけではありません。イジメられっ子はイジメっ子に心理的に依存する場合が多いのです。
 
これは、恋人間のドメスティック・バイオレンスに似ています。男から暴力を振るわれても関係を絶たない女性がいますが、それと同じようなものです。
ですから、離れたところからイジメっ子とイジメられっ子を見ていると、友だち関係のように見えることがよくあります。また、イジメっ子もこれがイジメとは思っていないこともよくあります。
 
こうした関係が生じるのは、イジメられっ子が親から十分な愛情を受けていないことが原因だと私は思っています。これは最近、「愛着障害」という言葉で説明されるようになりましたが、これを話すと長くなるので、ここでは省略します。
 
つまり、イジメというのは、学校環境、家庭環境、個人の資質から発生するもので、とりあえずの対策としては、イジメっ子とイジメられっ子を分離することや監視することが有効ですが、根本的には学校環境と家庭環境を改善しなければなりません。
とはいえ、社会環境がまともでないのに、学校環境と家庭環境だけよくするということは事実上不可能で、根本的解決には長い時間がかかります。
 
しかし、家庭で子どもに十分な愛情を注いでいれば、子どもはイジメっ子にもイジメられっ子にもならないものだと私は思っています。
 
それにしても、テレビのコメンテーターなどは、イジメ加害者は少年院送りにしろなどという愚論しか言えない人がほとんどです。こういう人たちの家庭は大丈夫かと心配になります。