イジメ問題がいまだにマスコミをにぎわせています。
イジメというのは単純なようでいて深い問題です。この機会に、イジメについて考察を深めるのも意義のあることかと思います。
 
イジメについての疑問のひとつは、被害者は加害者に対してなぜ拒絶なり反撃なりをしないのかということでしょう。
それについての一応の答えは、拒絶するとよけいにイジメられるからというものです。
しかし、拒絶しないためにどんどんイジメがエスカレートしていくという現実もあるわけです。
なぜいやなことをいやと言えないのでしょうか。
これについて考えるのにちょうどいい材料があったので、紹介したいと思います。朝日新聞家庭欄の「ひととき」という投書欄に載った文章です。
 
「いや」を言う勇気〈ひととき〉
 小学生の時、クラスに意地悪な女の子がいて、学校に行くのが憂鬱(ゆううつ)だった。
 ある日、彼女は私に「シール、ちょうだいよ」と言った。当時、シールなどを集めるのが人気で、私にとっても大切な宝物だったから、すぐに「いいよ」と差し出せなかった。ためらう私に、彼女は「じゃあ、明日。絶対にね」と言って帰って行った。彼女の要求は理不尽だったが、応じなければ、ますます意地悪をされるかもしれない。
 沈んだ気持ちのまま、放課後、仲良しの芳子ちゃんの家に遊びに行った。その話をしたのだろう。突然、芳子ちゃんのママが言った。「どうして、シールをあげる必要があるの? そんなのおかしいでしょう、いやって言いましょう」
 私はその言葉に勇気をもらった。翌日、私が言うことを聞くと信じてやってきた彼女に、ありったけの勇気を出して拒否した。あの時の彼女の驚いた顔は今も覚えている。その後、彼女は何も言ってこなかった。
 私立中学に進学した芳子ちゃんとは卒業以来会うこともなく、芳子ちゃんのママにも会っていない。けれど、あれから私は強くなったように思う。芳子ちゃんのママ、ありがとう。
三重県松阪市 (氏名略 女性) 会社員 49歳
朝日新聞デジタル2012980300
 
男同士のイジメには、腕力の強さということもかかわってきますが、この場合のように女の子同士のイジメだと、腕力は関係ないので、もっぱら精神力の問題としてとらえてもいいはずです。
いや、「精神力」という言葉はちょっと違うかもしれないので、「気が強い」「気が弱い」という言葉に変えます。
つまりイジメというのは、基本的には気の強い者が気の弱い者をイジメるというものです。
「気が強い・弱い」というのは、「体力がある・ない」とか、「筋肉質である・ない」というのと同じで、ある程度は生まれつきのものだと思います。もちろん経験を積むことで鍛えられていきますが(「気が弱い」というのは「やさしい」というプラスの面もあります)。
 
しかし、この文章を読むと、もうひとつの要素があることがわかります。つまり、「人のささえ」です。
ささえる人がいてくれれば、気の弱い人も気丈にふるまえるということです。
この投書主の場合、友人のママが「いやと言いたい」という気持ちをささえてくれたので、「いや」と言うことができたわけです。
 
そして、「いや」と言ったら、イジメはおさまりました。
このことは、イジメの解決策について多くのことを教えてくれると思います。
 
たいていのイジメは、被害者が気を強く持って、いやなことをいやと言えばおさまるのではないかと思います。
 
男同士のイジメの場合、腕力もひとつの要素になってきますが、それはあくまでひとつの要素で、クラスで腕力のない者はみんなイジメられるかというとそんなことはありません。むしろ気の弱さのほうが大きな要素ではないでしょうか。
 
この投書で印象的なのは、勇気を出して拒否したら、イジメっ子がひどく驚いたというところです。イジメっ子にはまったく予想外だったのでしょう。
人間はある程度つきあうと、この人間はこういう場合にこういう反応をするということが読めるようになります。このイジメっ子も自分の読みに自信を持っていたのでしょう(そういう意味では人間通です。これもひとつの能力です)。ただ、友人のママがささえになったということまでは読めなかったわけです。
 
この投書主の場合、たまたま友人の家に遊びに行ったことで幸運に恵まれたわけですが、こういうことはめったにありません。
ただ、ここでまともな判断力を持っている人なら思うはずです。友人のママの役割は本来親が果たすものではないのかと。
 
この投書主は、自分の親のことは一言も書いていませんが、まさか親がいないことはないでしょう。普段から親がささえになってくれていれば、意地悪な子にも平気で「いや」と言えて、学校に行くのが憂鬱になるようなこともなかったはずです。
 
ということは、多くのイジメにおいても、親が子どものささえになっていないのではないかと想像されます。
親がちゃんと子どもを愛して、子どもが自己肯定感を持っていれば、学校でイジメられるようなことにはならないというのが私の考えです(絶対にイジメられないとは断言できませんが)
 
イジメというと、どうしても加害者側に焦点が当たり、担任が指導しろとか、登校停止にしろとか、警察に訴えろとか言われます。しかし、被害者側に問題がないわけではありません。むしろこちらの対策のほうが重要だといえます。
というのは、1人のイジメっ子をなんとかしても、ほかのイジメっ子に出会う可能性がありますし、社会に出てからもイジメられる可能性があるからです。
被害者側がイジメをはねつける強さを持つことがなによりもたいせつです。
そして、そのことについては「親の役割」がたいせつです。
 
ところが、「親の役割」のたいせつさについての認識が、多くの人においてすっぽりと抜け落ちているのです。この投書主においてもそうでした。
これは親から虐待されている子どもが決して親を告発しないことに似ていると思われます。親がマイナスの役割を果たしているとき、それはなかなか認識されないのです。
 
子どもの世界にこれほどイジメが蔓延しているということは、「親の役割」を果たしていない親が世の中に蔓延しているということに違いありません。
このことがもっと認識される必要があると思います。