このごろ「子どもの騒音」に対する風当たりがどんどん強くなっている気がします。
1014日の朝日新聞朝刊東京版に「『騒音』苦情 悩む保育園」という記事が載っていました。
世田谷区の保坂展人区長がツイッターで「役所に寄せられるクレームの中で、『保育園で子どもたちの声がうるさい』というものがあり、対応に苦慮している」「防音壁を作ったり、子どもを園庭に出さないということも起きている――」とつぶやいたところ、多くの反響を呼び、2000以上リツイートされたものもあったといいます。
記事によると、保育園の騒音対策として、運動会を屋内でやったり、夏でも窓を開けなかったり、園児が園庭に出る時間を制限したり、ピアノ演奏時は窓を閉めるといったことが行われているということです。
 
 
「子どもの騒音」といえば、マンションの上の部屋で子どもが走り回るのがうるさいということがしばしば問題になります。
公園で遊ぶ子どもの声がうるさいという苦情もあるそうですし、電車の中など公共の場で子どもが騒ぐと、親が周りから白い目で見られたりします。
 
保育園についていえば、少子化が進んで昔よりはうんと「子どもの騒音」の発生源はへっているはずですし、住宅の気密性というか防音機能も強化されているはずです。それなのに「子どもの騒音」への苦情がふえているのはどうしてなのでしょう。
 
騒音の大きさはデシベルで表され、通常は条例で規制されています。騒音にも工場、工事、交通などの区分があり、住宅地か商業地か、また時間帯によって規制の値が違います。しかし、朝日新聞の記事には、保育園の騒音についてデシベルという言葉はいっさい出てきません。ほんとうに保育園の騒音は、苦情を言いたくなるほどうるさいのでしょうか。
 
たとえば、マンションの階下の住人が子どもの立てる音がうるさいと苦情を言ってきた場合、果たしてほんとうに子どもの立てる音がうるさいのか、階下の住人が気にしすぎなのかという問題があります。小さな音でも気にする人もいれば、少々の音など気にしない人もいます。
こうした問題を解決するために、デシベルという客観的な数値があり、子どもの立てる音は生活騒音に分類され、規制値も決まっています。ですから、騒音を測定すれば、客観的に判断できるはずです。
 
保育園の騒音はまだ測定されていないのかもしれません。しかし、保育園の騒音が昔よりも大きくなったということはないはずです。赤ちゃんの泣き声は昔も今もかわりませんし、同様に保育園の子どもの立てる音も昔も今も変わらないはずです。
 
ということは、保育園への苦情がふえたとすると、それは「子どもの騒音」を気にするおとながふえたということになります。
つまりこれは「子どもの問題」ではなく、「おとなの問題」なのです。
 
昔の子どもは自由に音を立てられたのに、今の子どもは音を立てることを制限される。これでは今の子どもがかわいそうです。
 
ですから、保育園への苦情がふえたのなら、子どもを指導するのではなく、苦情を言うおとなを指導するべきなのです。
 
しかし、現実には苦情を言ってくるおとなを説得したり黙らせたりするのは困難ですから、子どもを指導するという対応をとることになります。
世田谷区の保坂展人区長にしても、苦情を言うおとなは有権者ですから、「あなたががまんしなさい」とは言えません。
結局、弱い立場の子どもにがまんさせることになってしまいます。
新聞にしても、購読者はおとなですから、「おとなの問題」を追及することはできません。
 
うるさくすると叱られるなどして行動を制限された子どもはその分、人格が歪み、将来は人格の歪んだおとなになってしまいます。そうしたおとなは、子どもがのびのびしているのを見ると怒りを覚え、子どもの立てる音がうるさいと苦情を言ったりします。そのため子どもの行動を制限し、そうして育った子どもは人格が歪み……ということを人類は繰り返してきたわけです。
このように子どもの人格をゆがめることを“しつけ”といいます。
 
そして近年、ますます歪んだおとながふえて、そのため保育園への苦情もふえているというわけです。
赤ん坊が夜泣きするのがうるさいといって虐待する親も、歪んだおとなのひとつの姿です。
 
このような負のスパイラルは断ち切らねばなりません。それは、「子どもの騒音」問題は「子どもの問題」ではなく「おとなの問題」であるととらえることから始まります。