前回の「差別に負けた?橋下徹氏」というエントリーで、週刊朝日が「ハシシタ 奴の本性」という佐野眞一氏の連載の第一回目を掲載し、それに対して橋下徹氏が取材拒否という態度に出て、結局朝日新聞側が謝罪して連載も中止したという顛末について、私は橋下氏が取材拒否をしたのは橋下氏らしくない、橋下氏は国政進出の心労や維新の会の支持率低下で自信を失っているのではないかと書きました。
どうせ推測ですから、正しいも間違っているもないのですが、別の推測のほうが有力に思えてきたので、半ば訂正する意味で今回のエントリーを書くことにします。
 
橋下氏が被差別部落の出身で(正確には実父が被差別部落の出身というべきですが)、「橋下」はもともと「ハシシタ」と読むことや、実父がヤクザだったことなどはすでに報道されていたので、私は最初、橋下氏が佐野氏の記事にかみつく理由がよくわかりませんでした。そのため、自信を失っているのではないかという推測を述べたのです。
しかし、よく考えてみると、佐野氏の記事は今までの週刊文春や週刊新潮の記事とは違います。文章の迫力と説得力が違うのです。
たとえば私は、橋下氏には政治的な思想はなく、テレビのトーク番組で受けるようなことをやっているだけだとこれまで述べてきました。佐野氏も基本的に同じ考えですが、書き方は私とぜんぜん違います。週刊朝日から引用してみます。
 
橋下の言動は、すべからくテレビ視聴者を相手にしたポピュリズムでできている。ポピュリズムといっても、それを最初に政治の世界に取り入れた小泉純一郎とは天と地ほどの違いがある。
好き嫌いは別にして、小泉の言動が「千万人と雖も吾往かん」という信念というか狂気をはらんでいたのに対し、橋下の言動を突き動かしているのは、その場の人気取りだけが目的の動物的衝動である。
ヤクザとの交友關係が発覚して島田紳助が芸能界を引退したとき、大阪府知事時代の橋下は「紳助さんはバラエティー番組の宝。僕が府知事になれたのも、紳助さんの番組(『行列のできる法律相談所』)に出させてもらったおかげ」と言ってのけた。
そのとき、やはりこの男はそんなおべんちゃらと薄汚い遊泳術で生きてきたのかと、妙に得心がいった。それだけに、橋下徹はテレビがひり出した汚物である、と辺見庸が講演で痛烈に批判したとき、我が意を得た思いだった。
視聴率が稼げるからといって、この男をここまでつけあがらせ、挙句の果てには、将来の総理候補とまで持ち上げてしまったテレビの罪はきわめて重い。
 
 
それから、維新の会には何人かの現職国会議員が集まりましたが、これらの議員があまり魅力的な人物ではなく、選挙目当てで集まったように見えるので、そのため維新の会の支持率が低下したのではないかということは誰もが語ります。佐野氏も同じことを語りますが、その語り口が違います。
 
国会議員というより、場末のホストと言った方が似合いそうな男たちがもっともらしい顔でひな壇に並んだところは、橋下人気にあやかっていることが丸見えで、その醜悪さは正視できなかった。
新聞は、民主、自民、みんなの党に離党届を出した衆参の国会議員七人が新党に合流した、などと政治記事らしくきれいにまとめた。だが、打算ずくでパーティ券を売ってひと儲けした市議会、府議会議員たちを含めて、こういう下品な連中は、私から言わせれば“人間のクズ”という。
 
あまりにも感情的で、一方的に決めつける文章は、ノンフィクションにふさわしくありません。しかし、これは前振りであって、客を引きつける口上です。このあと、橋下徹氏の実父である橋下之峯の縁戚にインタビューした内容が語られ、それは本来のノンフィクションの書き方になっています。
 
とにかく佐野氏に徹底的に橋下氏を批判しようという意図があることは明白です。この調子で連載を続けられたらたまらないと橋下氏は判断したのでしょう。佐野氏のノンフィクションライターとしての力量は半端ではありません。
しかし、佐野氏に直接クレームをつけても、佐野氏が相手にしないことはわかっています。週刊朝日編集部も佐野氏と同じ立場と考えられます。しかし、朝日新聞本社を相手にすれば勝てると橋下氏は判断しました。朝日新聞はもともと部落差別問題にひじょうに敏感な新聞社だからです。そこで、橋下氏は朝日新聞系列のメディアすべてを取材拒否の対象にするという手法で朝日新聞本社を引っ張り出し、喧嘩に勝ったわけです。
 
つまり、今回の橋下氏の動きは、ひじょうに喧嘩上手なやり方で、勝てるという読みに基づいていたものではないかと思います。どっちにしても推測ですが、前回のエントリー「差別に負けた?橋下徹」で書いたことよりはこっちのほうがありそうです。
 
私は今回の問題についていろいろ考えました。
本来、佐野氏及び週刊朝日編集部は、八尾市の中の地名は伏せたほうがよかったかもしれませんが、ほかに問題はないとして突っ走ることもできました(朝日新聞本社が止めなければですが)。ただ、戦略の誤りはあったでしょう。
要するに、記事の構成が間違ったのです。
 
“前振り”のところで橋下氏を全面否定するようなことを書き、次に橋下氏は被差別部落の出身だということを書くという構成になっており、これは人格否定の根拠に被差別部落出身を持ち出したように読めてしまいます(そういう読み方は誤解だとして突っぱねることは可能ですが)
“前振り”は、「橋下氏はいずれ総理になることが有力視される人物なので、その人物像を明らかにすることはきわめて重要だ」といったことにとどめておき、橋下氏の人物評価はいっさいしなければよかったと思います。そうすれば、橋下氏の生い立ちを記述するところに被差別部落出身だと書いてもなんの問題もなかったでしょう。
 
佐野氏の連載は中止になってしまいましたが、佐野氏は書き下ろしの形でいいので、ぜひともこの原稿を完成させて出版してほしいものです。
 
 
ところで、橋下氏は朝日新聞側を批判するとき、「人権」という言葉を使いませんでした。日ごろから人権嫌いを公言しているからでしょう。そのため「血脈主義」や「身分制」という言葉を使い、さらに「DNAを暴く」という言葉も使いました。
橋下氏の言っていることを聞くと、「血脈」や「DNA」を持ち出すことがいけないかのようです。
そんなことが社会通念になってしまってはいけないので、ここは反論しておきたいと思います。
 
「血脈」も「DNA」も、その人間がどんな人間かを知るためには重要な要素です。「血脈」も「DNA」も差別とは関係ありません。むしろ「DNA」は差別をなくすために役立つものです。
いうまでもありませんが、「ヤクザのDNA」や「被差別部落のDNA」などというものはありません。被差別部落が差別されるようになったのは、なんらかの社会的な理由によるものだからです。
 
橋下氏はこうツイートしています。
 
週刊朝日は、僕の人物像を描くとしながら、僕の実父や祖父母、母親、遠戚のルーツを徹底的に暴くとしている。血脈を暴くことが人物像につながるという危険な血脈思想だ。そして僕の人格を否定することを目的として血脈を暴くと言うことは、これは僕の子どもや孫の人格否定にもなる。
 
「血脈を暴く」という表現を使ったのは(週刊朝日だけでなく橋下氏も使っている)、血脈が隠されている、あるいは血脈を隠しておきたいからでしょう。「血脈を知る」という表現ならなんの問題もないはずです。両親や祖父母のことを知ることは、その人を知ることにつながります。危険な思想でもなんでもありませんし、橋下氏の子どもや孫の人格否定になることでもありません。
 
橋下氏は「血脈」を隠しておきたい気持ちがあるのでしょうか。その気持ちが実父が被差別部落出身であることからきているのなら、橋下氏自身が差別主義者ということになります。
 
橋下氏は実父について、「父親の思い出はひとつだけ。23歳のとき、食事中に箸を投げたら、背負い投げされてぼこぼこにされたんです」と語ったそうです(ウィキペディアの「橋下徹」の項目による)
橋下氏が体罰肯定論者であることと、このときの体験が無関係であるはずはありません。
 
両親が離婚して母親のもとで育ったので、父親を嫌いになるのは不思議ではありませんが、自身の「DNA」の半分は父親のものですし、記憶はなくても幼児期に父親とふれあった体験は人格形成に当然影響を与えています。おそらく橋下氏はそのことを認めたくないので、「血脈」や「DNA」を否定したいのでしょう。
 
私に言わせれば、「血脈」や「DNA」を否定することこそ危険思想です。