電車内でベビーカーを利用することについて論争が起き、これがかなり広く関心を呼びました。私は一度このブログで取り上げましたが、それからまたいろいろ考えたので、もう一度ベビーカー問題について書いてみたいと思います。
 
最初に書いたエントリーはこちらです。
「電車内ベビーカー問題!」
 
これはもともとマナー向上を訴える鉄道会社のポスターがきっかけで始まった議論です。これまで電車内でのベビーカー利用についての確立されたマナーというのはなかったようですから、これはマナーのつくり方の問題でもあります。
一般に新しいマナーはどのようにしてつくられるのでしょうか。
 
まず基本的認識として、私は人間には利己的性質と利他的性質の両方があると考えています。このふたつは必ずしもバッティングするものではなくて、人のために行動することが自分のためにもなり、自分のために行動することが人のためにもなるということがほとんどです。ですから、普段は利己的性質と利他的性質があるということは意識されませんが、物事を掘り下げて考えるときは、分けて考えるとわかりやすくなります。
 
電車内のベビーカーについては、「混雑時には乗るべきでない」とか「折り畳んで乗るべきだ」といった声が意外と多くありました。ただでさえ満員電車で窮屈な思いをしているのに、ベビーカーが乗ってくればますます窮屈になるから迷惑だということでしょう。これは言うまでもなく、人間の利己的性質から出る声です。
一方、利他的性質から出る声というのもあります。「混雑しているときにベビーカーで電車に乗らなければならない母親はたいへんな思いをしている。周りの人間はできるだけ配慮してあげるべきだ」という声です。
 
まったく相反する声があるわけです。こうした場合は、最終的に声の大きいほうが勝利して、それが社会のマナーとなります。
今のところ、利己的性質から出る声のほうが大きいような感じですが、まだマナーとして確立されるところまではいっていません。
 
ここで視点を変えて、ベビーカーで電車に乗る母親の立場で考えてみましょう。
子育て中のママの会みたいなものがあって、そこで利他的性質から出てくる声があるとすれば、それは、「私たちは通勤客の迷惑にならないようにできるだけ満員電車に乗らないようにしましょう。乗るときはベビーカーを折り畳みましょう」というものになるはずです。
しかし、そんな声は出ないでしょう。なぜなら、通勤客というのは毎日働けるだけの健康な体を持っているはずで、そんな人たちのために行動しようという気になるわけがないからです。
 
一方、利己的性質から出てくる声はというと、「乗客はみんな私たち子育て中の母親のために協力するべきだ」というものになるでしょう。しかし、今はそういうことを言うとバッシングを受けてしまいそうですから、現実にはほとんど声は出てきていないと思います。
黙っていても世の中のバッシングがひどくなれば、「私たちは通勤客の迷惑にならないようにできるだけ満員電車に乗らないようにしましょう。乗るときはベビーカーを折り畳みましょう」という声が出てくることが考えられます。
これは一見、利他的性質から出てきた声とまったく同じです。しかし、これはバッシングから自己防衛をするためですから、利己的性質から出てきた声です。
 
つまり周りに利己的な言動をする人がいると、自分も対抗するために利己的な言動を取らざるをえなくなるというわけです。
もともと人間は利他的性質よりも利己的性質のほうがほんの少し強く生まれついていますから、利己的言動が利己的言動を呼ぶという悪循環に陥りがちです。尖閣など領土問題を見ればよくわかるでしょう。
今のままでは、一般の乗客のほうが多数派で、子育て中の母親は少数派ですから、双方の利己的な主張がぶつかれば、ベビーカーは混雑時には持ち込んではいけないというマナーが確立されてしまいそうです。
 
とはいえ、人間に利他的性質があるのも間違いありません。
 
私は中学生のころボーイスカウトに入っていて、その活動の一環として赤い羽根や緑の羽根の募金活動をしたことがあります。当時は京都に住んでいて、休日に植物園の前や金閣寺の前で募金活動をすると、かなりの金額が集まりました。しかし、平日に繁華街である四条通りや京都駅前あたりで募金活動をすると、通る人数はうんと多いのに極端に少ない金額しか集まらないのです。
京都駅前や繁華街にいるのは平均的な人たちですし、休日に植物園や金閣寺に行く人たちもおそらく平均的な人たちです。同じ人間が募金したりしなかったりするのです。
この理由は簡単です。休日にのんびりと出かけ、自然や文化財に接して豊かな気持ちになると、利他的な性質が前面に出て募金しようという気持ちになるのです。反対に、平日にせかせかと歩いているときは利己的性質が前面に出て、募金する気持ちにならないというわけです。
 
現在、ベビーカーを非難する声が大きいのは、心に余裕のない通勤客が多いということでしょう。
しかし、その人たちも心のモードが切り替わると、また別の主張をするようになるはずです。
 
たとえば北欧では福祉が行き届いて、人々は日本人よりよほど余裕のある気持ちで生きているはずです。そういうところでは人々はヘビーカーにも寛容です。
日本が急に北欧のように変わることはできませんが、気持ちに余裕がないからベビーカーを非難してしまうのだということを理解するだけでも変わってくるはずです。
少なくとも、今ベビーカーを批判する声が大きいからといって、その声に合わせたマナーをつくる必要はないと思います。
 
ベビーカー問題は逆に、私たちの心の豊かさを示すバロメーターになってくれています。