最近、「こだわりの一品」とか「こだわりのラーメン屋」という表現をよく耳にします。この「こだわり」はいい意味で使われています。しかし、もともと「こだわり」という言葉はほとんどの場合、悪い意味で使われていました。
 
三省堂「大辞林」で「こだわる」を引くと、こうなっています。
 
(1)心が何かにとらわれて、自由に考えることができなくなる。気にしなくてもいいようなことを気にする。拘泥する。
「金に―・る人」「済んだことにいつまでも―・るな」
(2)普通は軽視されがちなことにまで好みを主張する。
「ビールの銘柄に―・る」
 
「こだわる」の意味が変遷した経緯については、たとえばこちらのサイトを。
「『こだわる』の意味の変遷について」
 
私自身は、「こだわる」には用法がふたつあるのだと思っています。
つまり、「こだわる人」という場合には悪い意味になりますが、「こだわる人がつくった物」にはよい意味があるというわけです。
 
たとえば職人気質という言葉がありますが、職人には物づくりにひじょうにこだわりを持った人がいます。こういう人はしばしば採算を度外視してまでいい物をつくったりしますから、そういう人のつくった物は、商業主義が蔓延する世の中においてはひじょうに貴重です。まさに「こだわりの一品」であるわけです。
 
また、芸術家や作家もなんらかのこだわりを持っていることでその作品に特徴が出ます。というか、なんらかのこだわりなしに芸術家や作家になることはないというべきでしょうか。
「神は細部に宿る」という言葉がありますが、これはとりわけ芸術にいえることで、芸術作品においては些細な瑕疵が見えただけで感動がなくなってしまうことがあります。
そのため黒澤明監督は撮影のときは細部にまでこだわり、制作費と制作日数がかかりすぎて、一時は映画を撮ることができなくなってしまったほどです。
 
ということで、「こだわる」ということが物づくりに発揮された場合はよい物ができるので、「こだわる」という言葉がいい意味になってきたのは理解できます。
しかし、グルメレポーターが「ご主人のこだわりはなんですか」などと聞くことが普通になってきて、今では「こだわる人」までがいい意味になってきているような気がします。
しかし、「こだわる人」は決していいものではありません。
 
たとえば、職人気質の人というのは、たいていは頑固で気むずかしいものです。そのため頑固親父として妻や子どもから煙たがられているのが普通です。また、職人気質の人とは友だちづきあいもしにくいでしょう。
芸術家や作家も同じです。こういう人はそれなりの見識があるので、社会的には評価されますが、家族には敬遠されているに違いありません。
美しい作品がつくれる人は繊細な美意識を持っています。繊細な美意識とはキメの細かいフィルターのようなもので、みにくさと美しさが入り混じった現実をそのフィルターでこすことで美しい作品をつくりあげるわけです。そういう繊細な美意識の持ち主にとっては、現実の人間は受け入れがたいものであるのが当然です。
作家においても、よき家庭人であった人はきわめてまれです。夏目漱石にしても妻を殴っていました。
 
なんらかの「こだわり」を持っていることは、社会的成功のひとつの条件になるかもしれませんが、「こだわり」を持っていることと「円満な人格」とは相容れません。
私は前から「道徳を家庭に持ち込むな」と主張していますが、それと同じで「こだわりや美意識を家庭に持ち込むな」と主張したいと思います。