「ブータン、これでいいのだ」(御手洗瑞子著)という本を読んでいると、ブータンの子どもたちは人見知りしないと書いてあって、あれっと思いました。私の認識では、幼い子どもの人見知りは発達の過程で普通に生じるもので、逆に人見知りしない子は母親との信頼關係がつくれていない可能性があってよくないという説を聞いたことがあります。
ともかく、ブータンの子どもはみんな人見知りせず堂々としているということです。著者は、知っている人ばかりのコミュニティで生きているから、知らない人を警戒する感覚がないのではないかと推測しています。
 
日本では子どもが人見知りをするからといって悩む親がよくいます。しかし、人見知りの原因もわからないし、対策もわからないというのが現状です。こういう、人間についての基本的なことがわからないというのは困ったものです。
しかし、ブータンの子どもが人見知りしないとすれば、日本の子どもが人見知りするのは、親が外部の人を警戒していて、子どもがそれを察知しているのではないかと考えられます。あるいは、外部の人の態度が子どもに冷たく、子どもはそれを察知しているのかもしれません。
 
ブータン人は外部の人にも身内と同じように接するということは、同書のほかのエピソードからも推察できます。
ブータン人ガイドが外国人観光客を案内しているとき、客が道のぬかるみに足を取られて動けなくなっていると、ブータン人ガイドはそれを見て助けるどころか笑っていたということがあったそうです。私はこれを読んだときは、さすがにこれはあんまりではないかと思いました。客はバカにされたと思って傷つくでしょう。
しかし、考えてみると、私にとっていちばん親しい友人は高校時代の友人ですが、私が20代か30代であれば、親しい友人がぬかるみに足を取られて動けなくなっていたら、きっと笑っていたでしょう。ぬかるみに足を取られても、危険とかケガするということはありません。放っておいても自分で脱出するでしょう。これは絶対笑う場面だと思います。
ですから、ブータン人ガイドは、自分が仕事で世話をする観光客を自分の親しい友人と同じように見ていたということなのでしょう。
 
もっとも、今の日本で同じことをやったら、たいへんです。笑ったガイドは大バッシングを受けるでしょう。ガイドは「大丈夫ですか」などと言って心配そうに駆け寄って、手助けしなければなりません。しかし、それは処世術として身につけた行動様式で、心からの行動とは限りません。ブータン人が笑ったのは少なくとも心からの行動です。
礼儀の発達していないブータンのほうが心のつながりがあるということだと思います。
 
ブータン人の子どもが人見知りせず堂々としているのは、ほとんど叱られたことがないということも影響していると思われます。
同書には、ブータン人は失敗してもへこまないと書いてあります。著者はその理由として、ブータン人は「人間の力ではがんばってみてもどうにもできない」と思っている範囲が日本人よりずっと大きいからではないかと推測しています。つまり失敗したとき、ブータン人は自分を責めずに、「まあ、仕方がなかった」と割り切ることが多いというのです。
したがって、ブータン人は人が失敗しても責めません。失敗を許す文化があるのです。
ですから、ブータン人はいつも自信満々で堂々としているというわけです。
 
しかし、そのために外国人との間に摩擦が起きます。
ブータンで働いている外国人の間では、「ブータン人に一定以上のストレスをかけてはいけない」ということが半ば常識になっているということです。
というのは、ほとんど叱られた経験のないブータン人は、あまり叱られると逆ギレしてしまうことがあるからです。
 
ブータン人は叱ることがない一方、喜怒哀楽をとても素直に表現し、ですから逆ギレ以外にも実はよく怒るそうです。大きな身振り手振りで正論を振りかざして怒り、しばらくするとケロッと忘れて笑っているということです。
 
つまりブータン人は普通に「怒る」一方、「叱る」ことはほとんどないということになります。
 
よく日本では、「怒る」のはよくない、「叱る」べきだということが言われます。しかし、こういう価値観はほんとうに正しいのでしょうか。
 
「怒る」というのは人間である以上あって当然です。しかし、「叱る」というのは自然な行為ではありません。
 
文化人類学の古典に「未開人の性生活」(マリノウスキー著)という本があります。その中からニューギニアのトロブリアンド島の原住民に関する記述を引用します。
 
トロブリアンド島の子供は、自由と独立を享受している。子供達は早くから両親の監督保護から解放される。つまり正規のしつけという観念も、家庭的な強制という体罰もないのである。親子間の口論をみると、子供があれをしろ、これをしろといわれている。しかしいつの場合も、子供に骨折りを頼むという形でなされており、トロブリアンドの親子間には単なる命令というものは決してみられない。
時には腹を立て、怒りを爆発させた親が、子供を打つことがあるが、その場合でも子供は猛烈に親にさからい、打ってかかる。「報い」とか強制的な罰の観念などは、彼らにとって縁遠いものであり、それどころか嫌われている。私は何回か、子供がひどい悪行をしたので、何かの方法で心を鬼にして罰したほうが、子供の将来のためになると暗示した。しかしこの考え方は彼らにとって不自然であり、また不道徳と思われたらしく、一種の憤りをもって拒否された。
 
ここにはいわば道徳発生以前の社会が描かれています。この社会には「怒る」はあっても「叱る」や「罰する」はありません。
文明人であるマリノウスキーは、子どもを罰したほうがよいという考え方を述べています。しかし、文明社会の家庭のほうが子どもが非行に走るなどの問題が生じていますし、文明人のほうが未開人を奴隷にするなどのひどい悪行をしてきました。
 
日本では、昔は地域のおとなたちが子どもを叱っていたから子どもがちゃんと育ったなどということが言われていますが、これはまさに“歴史修正主義”です。
私の子ども時代は、たとえば人の家の柿の木から実を盗んだとか、野球のボールで人の家の窓ガラスを割ったなどというときに怒られましたが、これはあくまで自分の利害のために「怒る」のであって、子どものために「叱る」のではありません。子どものために「叱る」人なんていなかったのではないでしょうか。
しかし、子どもは怒られることで、おとなはどんなときに怒るのかということは学習できました。
 
「怒る」のは人間である以上しかたがありませんが、「叱る」というのは文明とともにどんどん増大してきたもので、それによってほんとうに人間が幸せになっているのか、考え直す必要があると思います。